「鹿角」
 
△十 鹿角町村巡り
<錦木村>
 錦木村は、殆んど郡の中央に位し、鹿角の関門を扼して居り、毛馬内駅(現十和田南駅) の所在地である。
 米白川は、大湯川・小坂川を此処に於て合し、男神・女神を過ぎて、遥か北秋田に入り 能代港に注ぐ。
 米白川河畔に臨んで居る松山、大欠部落は、地味肥沃の為め蔬菜栽培地として、古来有名な 所であった。
 伝説として残されて居る恋の錦木塚は、幾人の歌人墨客をして、低回憑弔せしめて やまなかったことであらう。
 
 毛馬内駅を距る東方二十余町の地に、村社猿賀神社がある。上毛野 田道将軍 を祭祀して 居る。
 抑も田道将軍は、崇神天皇の皇子、豊城入彦命の四世の孫であって、応神天皇の朝に、 将軍に任ぜられ、新羅を撃って之を破り、南迦羅、安羅、多羅、卓淳、加羅等七ケ国を平定し、 明年百済に使し、博識の士を求め王仁、辰孫王を得て還り、吾国文化の基礎を為すに至った。
 
 仁徳天皇五十三年、新羅貢を闕くにより、将軍再び討って、大いに之を破り、四邑の 人民を虜にして帰り、其五十五年、北奥つの蝦夷叛くに当り、更に大命を奉じて、遠く征伐に 向ったのであった。
 田道将軍、敵の蝦夷なるを侮り、勝に乗じて深く討ち入り、終に毒手に斃れたのであった、 柴平村寺坂の近くに、古名門木カトキの澤と云ひ、今は門の澤と云呼ぶ、今も清水の滴り落る 所がある、将軍戦ひに斃れんとせし時、此水を以って傷口を洗ひ、尚渇を医したとか伝へて居る、 将軍其時の死容、尚憤怒の形相を表はして、眼光炯々、更に閉ぢなかったので、賊中一人 としてよく近付き得る者は無かったと云ふ。
 
 従軍者、其屍を仮葬し、賊を捨て帰った後に於て、蝦夷等、田道将軍が勇奮の為め多く同志の 敗死せるを悪み、其墳墓を発き見るに、忽ち遺骸、大蛇となり、毒気を発散せる事、数千の矢を 一時に発するが如く、之に射られて死亡せる者多数、僅かに二三人免れることを得たのである。
 乃ち土人、将軍の威烈、死後尚消滅せざるを怖れ、霊魂を鹿角郡猿賀野の原に 斎き祭ったものを、後の人、猿賀権現と名付けた。
 
 今の猿賀神社は是である、祠堂は方二間にして、正奥神殿の床下に横五尺縦凡四尺、地上に 現はるゝ高さ一尺許りある平石あり、之は其頃の墓標として、此下は将軍を埋めたる古墳なりと 伝へるのである。

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