「鹿角」
 
△九 奥羽アルプスの奥秘境八幡平
<焼山火山>
 又一を出ると、道は栂トガ森の懸崖に危げに通じて居る、湯華の白くかゝった湯の渓流を越えて、 いよいよ火口壁の削落かと思ふやうな絶壁を上りはじめると、途中幾つもの岩の割目から噴き出す 硫気に不意を打たれて驚く、試みにその割目を砕いて見ると、飽くまで黄色した美しい硫黄華が 一面に附着せるを見るであらう、淺野聰一郎氏が数拾万金を投じて硫黄を採掘したのは、 この岸壁ださうだ、火口原に入ると、赤塗の鬼面を想像せしめるやうな火口壁がぐるりと我を 取り巻き、火口原湖の一隅からは、しきりに濛々たる白煙を吹き上げ吹き上げ、熱湯は遠雷の響を なして我に迫って来る、
 
 自然の斧が彫みあぐんで、滅多打ちに砕きかけたやうな、真黒な巨岩が獰猛な姿をして、 ぬっと突立って居るのは、火口丘鬼ケ城である、明治二十二年頃爆裂したと聞く、涸沼を右に 鬼ケ城の左肩から攀ぢはじめる、足は剣を束ねたやうな尖岩を踏んで、手は其剣先を掴んで上ると、 踏み崩す岩塊が凹線の中を弾丸のやうに落ちて行く、頂上に登ると、一面に敷き詰めた軟かな 草を肌着に、磯つゝじに偃松を織りなした上着をつけて、醜い地肌をかくして了ふ、磯つゝじに 寝ころんで、技巧に過ぎる自然の庭園を眺めて居ると、何時までも帰りたくない気がする、南側に 鬼が棲息したといふ洞窟を見て、戦慄を覚えるやうな絶壁の一線を渡って、湯華の湖に出る、
 この火口原湖は湯沼と称して、熱湯を漫々と湛へた湖であったが、湖中に沈殿してある湯華を 取るため、今では阿部藤助氏が湯を涸沼に落して、湯華ばかりの底を暴に見せて居る、数十尺の 厚さを持った大きな面積の沈殿を削り落して了ったなら、又湯を堰き止めて置きさへすれば、 又々湯華の沈殿を見るであらうから、全く無尽の宝庫と云はなければなるまい、
 
 急峻な火口壁の一角から登って、御鉢廻りをすると、流石に四千五百尺の空濶なる高峰の展望の 遥けさ、全く奥羽アルプスの幽邃秘奥の幽幻味に酔はされて了ふ、
 波と打つ群山の末遥うに、淡く淡く芙蓉の雪を見せて居るのが鳥海山である、若しも西天雲なき日、 落陽を見ると、金蛇波に躍って日本海の一線を微に見るさうだ、
 荒刻みに刻んだ権現岩を廻ると、酢ケ湯への下り口に出る、熱湯を河と流して居る恐ろしい 酢ケ湯は、こゝの天辺から一里の谷底にある。
 
 いよいよ帰途に就く。
 華厳の瀧のやうに断岩を直下する美しい曾利瀧は、又一の谷下にあると聞けど割愛して、あの 眺望のよい峯伝へに気味悪い泪洳地を抜けて、澄川に出たなら、左の坦途をそのまゝ大沼に急ぐ とよい、
 大沼は周り一里余あるさうだが、大部分は泪洳地に変って了って、水面は僅に其一隅に 光ってゐる、この湖水はこゝの主となった権兵衛爺の養鯉場として有名だったが、 爺が死んでからは、美しい草花を踏みながら広いこの泪洳地を逍遥して居っても、お伽噺 にあるやうな彼の顔が見えないので、徒らに淋しい沼となって了った、
 然し例の神の手慰みに出来た、小さい池や美しい箱庭丈は、所々に配置されてある、
 之でいよいよ探勝を終へる、下り下って坂比平の家々を木の間かくれに見出した時は、此世 ならぬ霊境から下界に戻った様な一種の安心と、一種の堕落を感ずるであらう。

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