「鹿角」
 
△九 奥羽アルプスの奥秘境八幡平
<フケから又一へ>
 八幡平への登り口まで出てから、右に下ると、陸羽硫黄山に出る、硫黄採鉱の為めに、谷一面 非常に荒んでゐて、寂しい感じを与へる、元は見事だったといふ間欠泉も、今は色恐ろしい魔の 池になって居る、例の笹原を切り開いた立派な道を楽々下り行くと、目も眩むやうな赤色の絶壁が 突立って居る、これぞ月世界の称ある後生掛の地嶽谷である、見るから恐ろしい地嶽の大釜が、 谷一面に並べられてある其中には、様々な色をした泥汁や熱湯が悪魔の喘ぐやうな凄い音立てゝ、 ぐらぐら煮立って居る、毒瓦斯が出るといふ石假戸硫黄山の奥まで行くと、廃山になった事務所 趾の荒涼さ、万物を死滅し尽した月界もこれかと息詰る心地になる、
 本道に立ち戻って澄川まで下る間も曰く、をなめ、をとめの湯、曰く何と、地嶽谷はこゝにも 凄い色を見せてゐる、
 
 澄川からは急に峻坂にとりつく、いよいよ焼山火山への本道に入ったのである、側目もふらず、 大樹の中を喘ぎ喘ぎ登ると突然! 全く突然、例の泪洳地とに入る、
 こゝは約三千六百尺の高地で、八幡平はもう背後に其一角を現はして居る、こゝを出て又上り はじめると、截り落したやうな深い谷内川の渓谷が現はれて、限界は急に開けて来る、 地嶽谷でしっかり滅入って了った気分が、急に蘇生としやうな嬉しみに還って、我知らず踊躍 するのである、左には早や焼山の一角が現はれると、右には鹿角の盆地が三千七百尺の脚底に、 ぽっちりと白く見え初める、名も知らぬ山鳥が人にも怖ぢず、枝低く来て鳴く、路上所々に 兎取る輪索が仕掛けてある、
 
 熊も時々は姿を見せると聞いて、いよいよ深山に入った心持に なって終ふ、筋骨逞しい立派な若者が、思い湯華の叺を背負って通りかゝるのは、かの阿部藤助氏 経営の又一鉱山から来る谷内の青年達である、又一にはフケの湯のそれと比較にもならぬ立派で 頑丈な一棟があって、青年の合宿と事務員室とに仕切られてある、怪禽野獣の跳梁するこの深山に こんな建物のあらうとは、誰しも思ひ設けぬことであらう、すぐ近くに湯槽の設備もしてあるので、 一浴を試みながら東方を眺むと、五宮、皮投・四角の諸山を列ねた奥羽脊梁山脈の一劃が、雄渾な 景といふよりは寧ろ、崇厳なる神殿のやうに雲表に現出するを見るのである。

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