「鹿角」
 
△九 奥羽アルプスの奥秘境八幡平
<坂比平からフケの湯へ>
 翁の宅を後にして間もなく、江戸川の渓流を渡ると、次いで迎ふる早川は、これぞ八幡平の 北壁を走り下る折ケ島川である、道はこの渓流を左にしながら、緩勾配の坂路を奥へ奥へと 進んでゆく、熊澤川の水声は次第々々に右方に遠のいて、風光は一歩々々山深く入り行く といふ気分を与へる、道しるべが建てゝある、左はフケの湯の旧道で、右はトロコ、赤川への 路で、又一鉱山へも通ずる一路ださうだ、真中の新道を行くと勾配は次第々々に緩くなって、 広漠たる原野に出る、放牧の牛の此処彼処に草に飽いたが寝てゐる、一面に織りなす花 野を流るゝせゝらぎに、足を冷しながら、鳥の啼音に我を忘るゝもよい、一渓流を渡る頃から、 道やゝ急になると、二抱えもあるやうなブナ、楢等の大樹は、矗々として天日を遮って居る、
 
 淙々たる水声は聞こえるけれども、木の下暗にかくれて流はみえない、鳥の啼き音も四隣に 山彦コダマして、深山の感を与へる、もうこの辺は二千九百尺の地点であるのだ、フケの湯新道の 標木から左に折れて、大樹の坂路を登ると、処々に「さるをかせ」の枝に掛ってあるのを見て、 いよいよ山深く入った気分になる、時折は湯治客等が手慰に作った竹細工等を背にして来るのに 行き逢ふであらう、もうフケの湯も近くなったのだ、道尽きて洞然たる谷地に出る、
 
 温古オンコの樹に囲まれた可成の広さを持った泪洳地で、歩くにつれて、生温い水が足を埋める、 底知れずぬかり行きはしないかと思ふと、何となく夢の世界に引張って行かれるやうな、変な 気持になってしまふ、置き渡した温古の丸太を渡り行くと旧道に合する、
 菰の森は早や背を見せて居る、谷地の中程から右方の樹林に分け入ると、長沼の明鏡がある、 鯉が放たれて居るので、湯治の人等、時に針を垂れて徒然の慰めにする、雨のあるときだけ川 をなすと聞く水無川ミヅナシガワのごろごろ石を踏んで、岨路行くと、湯の香が鼻を打って、 フケの湯が展開して来る、川向ひの窪地に巨岩を吹き上げて、濛々たる白煙の立って居るのが、 一番さきに目につく、沸々と巨人の喘ぎするやうな音立てゝ吹きに吹く、その湯気の冷えては、 硫黄華となって、巨岩の口に凝結してあるが、凄惨の感を与へる、その少し上の台地の大笹原 の中に、清冽指を落すやうな冷泉が湧いて居るのみならず、噴口と相距る十間許許りの処からも 清水湧出して、湯治人の飲料水や用水になって居るのを見ると、造化の神の皮肉ぶりに 驚かざるを得ない、
 
 一番高い処に陣取った小屋は、こゝの村の生命財産を一手に預ってある湯主の住宅である、 湯治人の雑居して居る四、五の太柱の掘立小屋も、三つの湯槽も、こゝの本陣からはよく見える、 小屋の土間に蓆を敷いたその上に一枚の茣蓙を置いてねころぶと、大自然の温ドルで、程よく 全身が蒸フかされるのだ、何のことはない、沸々たる噴火口を蓋をして、ねて居るやうなもので、 危険といへば危険だが、神霊の怒りにふれるやうな不浄な者の這入らぬ中は大丈夫だ、多い時には 五百人の湯治客を見るさうだ、三千三百余尺の高地になって居る故、朝夕の冷気は、流石に身に 応へる。

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