「鹿角」
 
△八 神秘幽邃の絶勝 鹿角の十和田湖
<十和田の勝景と和井内氏の養魚>
 然るに当時郡宰であった花輪町の小田島由義氏も、茲に着目する所あり、大湯の千葉氏 (上の湯)から鯉魚の子数万尾を取り寄せ、最初の放流を試みて、世人の妄を啓き、氏を激励した、
 之に力を得た氏は明治十七年、断々乎として養魚事業に着手し初め、鯉、鮒、嘉魚イワナ等を 放流した、生育の状頗る良好、前途有望と認められてあったが、其の漁穫、意の如くならず、 二尺内外の鯉魚は一尾数円に販売せざれば、収支相償はず、営業として何等の価値なきを 認めたのである。
 然し氏は、前進の希望を捨てやうとはしなかった、そこで当時水産家として有名なりし 松原新之助氏の意見を聞き、主力を養鱒事業に注入することゝ為し、明治三十年小坂鉱山を 辞して、各所の養魚事業を見学し、令息貞時氏をして、専心水産業を研究せしめ、明治三十三年 日光鱒を輸入し、人口孵化法に依り育成の後、放ちたるに結果良好、鱒の群遊を見るに至った。  然しながら是れ亦、散在性の為、漁穫意の如くならず、失敗に終らざるを得なかったのである。
 
 此頃は既に父祖伝来の田畑山林を売り尽し、資金の欠乏を告ぐるの苦境に陥ったので、当時の 世人は、氏の成功を信ずるものなく、一狂人の如く見做して、知己友人、一人として顧るものなく、 四面楚歌の声を聞くのであった。
 殊に愚蒙なる人々に至っては、十和田様の祟りとなし、神霊を汚したる罰とさへ罵しる ものもあったのである。然し氏は頑として肯かないのみならず、東奔西走して善後の策を 講究してやまなかった。
 
 明治三十五年、青森県水産試験場に出頭したる時に、信州に於ける寒天製造会社支配人 中島庸三なる人、氏の談を聞いて曰く、十和田湖に北海道支笏湖に産する「カバチッポ」と云ふ 鱒魚こそ適当なれ、との進言を聞き、之を求めて人口孵化を行ひ、同三十六年五月、三万尾を 放流したのであった。此の鱒魚は放流後、三年を経れば、放流箇所に産卵の為帰流し来ると云ふ、 所謂回帰性の鱒であった。成功の如何は正に三年後にある、
 茲三年の間に於ける氏の苦心惨澹は、到底筆紙に尽すことが出来ない、資金の欠乏、信用の失墜、 親族朋友は狂人として顧みるものなく、父母さへ氏の前途を危ぶむに至る、又故なしと云はれぬ、 此事業にして最後失敗せんか。氏の栄辱は兎もあれ父母妻子をして、或は飢餓に陥らしむるの 虞れがあったのである、一瞬一刻の苦痛は、如何に大なりと雖も堪へ得べきである、
 
 三年の間、貧苦と闘ひ侮辱を忍ぶが如きは、実に大丈夫でなければ到底出来得ない所である、
 此時に当り、氏の苦悶を慰め、激励してやまなかったのは、一人 和井内夫人カツ子 女史あったのみ である、氏にとって夫人は、千万の人にも勝る味方であり、後援者であった(夫人は文久三年三月 十日生、明治十一年一月和井内氏に嫁いだと聞く)。
 夫人は健気にも、十和田湖畔を死所と定め、夫君を慰め且つは激励し、自若従容として其の 成功を待ったのであった。

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