「鹿角」
 
△八 神秘幽邃の絶勝 鹿角の十和田湖
<十和田の勝景と和井内氏の養魚>
 果せる哉、三年目の三十八年十月、一群の鱒魚勇しく放流所を指して回帰し来り、惨風悲雨、 失敗二十年の辛酸を具さに嘗めたる和井内氏は、始めて茲に愁眉を開くことが出来たのであった。
 堅忍不抜、粒々苦心、事業と闘ひ赤貧と闘ひ、尚神霊の祟りに怖ぢなかった氏は、遂に和井内鱒に 依って、十和田を開拓し名勝を伝へて、天下に普く知らしめたのであった。生きたる湖神と 称へられるも理りである、
 三十八年秋の十月、肌寒き湖畔に鱒魚の群を眺めつゝ夫君貞行氏の手を握って、熱涙に咽んだ カツ夫人の歓びは如何ばかりであったらう、
 貞淑の夫人は同四十年三月、病を以って湖畔に亡くなられた。漁民頻りに愛慕して措かず、 勝漁神社に祭祀して、永く湖畔の護りたらしめて居る。
 
 和井内氏の養魚事業成功の曙光を認めて、爾来十七年十和田姫鱒の名、遠く北米の異域に迄 伝られるに至った、今や宏荘の設備を完うして、人口孵化法に依り、年々数百万の鱒児を放流し、 一日平均五十貫以上の姫鱒を捕獲販売して居るのである。
 但し最近の事実として、石油発動機船は轟々の音を立てゝ湖中を往復し、湖畔は自転車を 乗り廻る人多く、為めに鱒の多くは漸次捕獲至難の地に逃れて、其数量を減じつゝあると云ふ。
 
 十和田鱒は、煮焼きして食膳に上せ、美味なるのみならず燻製と為したるは、ビールの肴として 歓迎せられ、缶詰は米国へ輸出する為めに試みられて居る。
 孵化場は発荷より西九町追手にあり、和井内氏邸の側になって居る、遊覧者の参観をゆるして居る。
 和井内氏の功績たるや、実に偉大なりと云はなければならない、明治四十年四月二十五日、勅定の 緑綬褒章を賜はって彰表せられたことは、実に氏一人の名誉たるのみならず、如斯き偉人を出した 本郡の誇りでなければならない。
 
 和井内氏今年(大正十年)六十四歳、養魚其他の事業は総べて令息貞時氏に譲り、毛馬内町の本邸に 在り、殆んど十和田紹介宣伝の為めに努められて居る。
 湖岸近き所に約三百町歩の開墾地を有し、地味肥沃にして肥料を要せず、米、大小豆、蕎麦、粟、 其他の蔬菜を生産する。
 湖面を囲む四周の森林は、総べて二千三百町歩の国有林である、人間未踏、斧斤曾つて入らない 太古の姿を其儘に残して居る。
 
 轆轤細工の工場があって、種々珍奇な細工物器物を製作して居る、得易しからぬ良材を以って 随時註文にも応ずるのであるから、紀念品土産物を調整するには絶好のものであらう、
 曾つて予言者として有名であった湖處子夫人宮崎光子の遺骨を埋めた墓は、湖畔休屋に建てられ て居る、彼女は生前に於て、特に十和田の神霊的なるを憧憬し、臨終の遺言に依って、遥か都より 持ち来って埋めたと云ふ。

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