鹿角の近代人物伝
 
…… 郡長として鹿角振興の基礎を築いた ……
△小田島由義   弘化二年(1845)〜大正九年(1920)
 鹿角で郡長といえば、それは 小田島由義 ユウギを指すほど、氏は庶民の信頼と尊敬をあ つめた。郡長在職前後十四年、この人ほど郡治に大きな足跡を残した人はない。
 
 由義は弘化二年、尾去沢鉱山支配人内田九兵衛富孚トミタカの末子として、尾去沢に生ま れた。幼名は丑太郎、十三歳の時花輪町小田島徳兵衛の養子となり、名を徳弥由義と改め た。そして盛岡に出府し、文武の道に励んだ。十五歳のとき養父の死去にあい帰郷した が、十九歳で再び盛岡に出、藩校作人館サクジンカンに学んだ。慶応四年の戊辰戦争には、花 輪給人隊二番手総締役として出陣した。やがて敗戦となり、官軍が鹿角に進駐してくる と、他藩応接役として折衝に当たった。鹿角にさしたる混乱のなかったのは、由義の力 によるといわれている。
 
 明治二年、居を八幡平和田に移し、農業を学んだが、当時の江刺県大参事国分五郎に その才幹を見込まれ、花輪分局に出仕し、近代学校の前身・寸陰館スンインカンの教師となった 。同五年上京して工部省鉱山曲に出仕、やがて認められて北陸七十六ケ山を視察したり 、また米国人技師に付き添って大葛金山への五百余個の機械の輸送据付に当たっている 。
 
 同十五年帰郷し、家業の酒造業井桁屋を継いだが、十七年鹿角郡長に登用された。由 義は就任早々、鹿角振興のため道路網の整備に当たった。花輪・田山間の道路開削は、難 工事であったが、大里長道、一の渡・笹の渡の二橋が次々と完成し、十九年には湯瀬で岩 手県側の二戸郡長と感激の竣工式を挙げている。また殖産興業に意を用い、養蚕の改良 につとめて、蚕糸伝習所を開設したり、そのほか、アケビつる細工、醸造業、養魚など の事業発展のためにも力を注いだ。
 
 また雲樓ウンロウと号して、文筆をたしなむという一面もあった。秋田県第一号とされる 鹿角婦人会の創立も、由義の指導援助によるものである。同三十八年の花輪町大火で全 財産を失う不幸もあったが、それを乗り越え、晩年は花輪町長に推されている。大正九 年、七十六歳で没した。
「鹿角の碑文探訪:顕彰碑」

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