鹿角の近代人物伝
 
…… 部落更生に一生を捧げた ……
△阿部善之助   明治六年(1873)〜大正十一年(1922)
 旧夏井小学校の跡地に、阿部善之助の頌徳碑が建っている。これは、あらゆる困難を 克服し、大造林と湿田改良、耕地整理を断行し、富裕な村の基礎を築いた氏の功績を讃 えたものである。
 善之助は明治六年二月二十四日、夏井村の旧家阿部治助の長男として生まれ、幼少の ころは一郎と呼ばれた。父は明敏な善之助に将来を託し、当時としては珍しい東京遊学 をさせた。善之助は明治学校で官用簿記学を修め、二十五年に卒業、帰郷している。
 
 当時の夏井部落は、ヘドロ田といわれ、大部分は馬の入れない湿田であった。近隣の 村では、夏井には嫁をくれるな、というほど、腰までつかる農作業は難渋であり、また 反当収量も二、三俵という有様だった。中には家をたたんで北海道に移住する者も出る くらい、村の生活は貧しかった。
 村の更生には、広大な部落有原野の活用と、土地改良しかないことを悟った善之助は 、まず村人を説得して一大造林計画をたて、遊休地の植林に着手した。これは五カ年間 継続され、今では一大美林に生長している。
 
 湿田の乾田化、耕地整理は多くの困難な問題があり、簡単ではなかった。善之助は、 この打開を青年の力に求め、他町村に先がけて青年会を組織した。既に成功していた毛 馬内での土地改良を視察し、青年会が耕作する四反歩を乾田とした。みごとに改良された 田からは、湿田の二倍もの収穫があった。
 
 村人もようやく善之助の説得に耳をかすようになり、同四十五年、夏井村耕地整理組 合が結成された。しかし、交換分合で村人の大反撃にあったり、資金調達で何十回も出 県陳情するなど、困難の連続だった。大正十年には連日の日照りで水源が枯れ、植付 不能となった。村人は、善之助にだまされた、火をつける、殺してやると騒ぎ、善之助は 夜は一人で歩けなかったという。この事業が完成した十一年九月、多年の辛労のため床 に伏すようになり、十二月二十九日、五十歳の若さで病没した。昭和十四年、村人は頌 徳碑を建立してその功績に報いている。
「鹿角の碑文探訪:顕彰碑」

△耕地整理記念碑(夏井部落入口にある)
  建立趣意書
当部落ハ古来農ヲ以テ生業トシ来レリ 然ルニ耕ス所ノ田地ハ概ネ湿田ニシテ  泥濘膝ヲ没スル有様ニシテ 耕作上頗ル困難ヲ感ジ従ッテ収穫モ亦思ハシカラザリキ  斯クテハ今後部落ノ発展ヲ期シ難ク 茲ニ於テ部落青年団率先其労ニ当リ 去ル明治 四十四年暗渠排水工事ヲ試ミ成績良好ナルヲ認メ 明治四十五年三月組合ヲ組織シ  耕地整理ヲ着手セリ 爾来組合員ノ熱心努力ニヨリ優良ナル成績ヲ挙ゲ 本年其ノ 完成ヲ見ルニ至レリ
依テ本碑ヲ建立シ永久ニ記念スルモノナリ
  大正十一年十一月十一日建立  
 側面には、
 明治四十五年三月に着手 耕地整理組合員名
 大正十一年九年竣工 寄付者名

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