鹿角の近代人物伝
 
…… 婦人運動の先覚者 ……
△小田島ハツ   嘉永六年(1853)〜昭和九年(1934)
 明治二十三年九月十六日、紀州沖で暴風雨のためトルコ軍艦エルトグロール号が遭難 した。同艦は明治天皇に勲章奉呈のため来朝した、トルコ皇帝特使オスマンパシャの乗 艦で、帰路この難にあい、五百八十七人の溺死者を出したのである。
 当時、鹿角婦人会長であった小田島ハツは、会員に呼びかけ、丁重な弔文と義えん金を 贈り、同国から感謝状をよせられている。
 ハツの提唱により、鹿角婦人会が田村レイ、佐々木チヨ、川和田カツ、川村クニの四 名を幹事として結成されたのは、明治二十一年十月六日である。それからわずか二年で このような活動をするまで成長したのである。
 
 鹿角婦人会は、全国的にも早期の婦人団体の一つで、秋田県の第一号である。これに は郡長であった夫君由義ユウギの助言が大きかったといわれている。
 ハツは嘉永六年、杉江与茂吉の長女として花輪に生まれた。少女時代から才色兼備の才 えんで、見込まれて達識の人小田島由義に嫁ぐことになったが、身分上の問題から奈良 又助の養女となった。石田八弥の義妹にあたり、このことから、小田島家は石田男爵と 親戚づきあいをしたということである。
 
 婚礼は明治三年四月で、ハツ十八歳の時である。同二年戊辰戦争後、由義は八幡平和 田に帰農していた。従ってハツは同五年七月五日まで家族六人と和田ですごし、同十七 年由義が鹿角郡長になるまで、夫と共に各地を転々とし、広い視野と高い教養を身に つけた。
 ハツの卓越した指導のもとに、鹿角婦人会は日清日露の両戦役では、軍資金献納、出 征軍人の慰問を行い、また花輪の大火や秋田県内外の災害などに幅広い救援活動を展開 した。また、毎月の例会に教養講座を設け、さらに伝統手工芸品を製作し、その保存に つとめた。
 
 明治三十八年一月、愛国婦人会の組織と合併し、ハツは大正十四年まで前後三十七年 間、会長を務めている。俳句をたしなみ、絵も上手であった。昭和九年十二月、婦人運 動の不滅の足跡を残し、八十二歳の高齢をもってその生涯を閉じている。

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