鹿角の近代人物伝
 
…… 幕末に外国の鉱山技術を学んだ ……
△内田慎吾   天保九年(1838)〜大正十年(1921)
 元治二年四月、尾去沢銅山の役人であった内田慎吾は、藩から、横浜へ行って外国人 技師から金坑学を伝習せよ、という命令を受けた。当時、藩財政は火の車で御用銅増産 は至上命令であり、山元へ百三十万斤ギン出銅の厳達があったばかりで、この目標達成に は、外国のすぐれた技術を導入しなければならなかったのである。
 同僚の川口仲太と横浜に出向いたのは九月である。それから六ケ月間技術を学び、言 葉の障害は、アメリカ彦蔵(漂流人)の助けで克服した。
 
 慎吾は天保九年十一月、内田九兵衛富孚トミサネの第三子として尾去沢に生まれ、幼名を 武八郎といった。嘉永三年十三歳で盛岡へ登り、大伯父工藤玄良(匙翁サジオウ)方に寄食 修業した。十六歳の時帰郷し、銅山限り御用見習となった。二年後、再び盛岡へ登り 、安政五年二十一歳で三沢廻り寸甫スンポ(測量係)を命ぜられた。御台所寸甫を経て産 か出・銅方見習となり、採鉱精錬などの改革に貢献している。万延元年慎吾と改名した。
 
 尾去沢銅山では、増産のため坑道内に灯竹トモシダケの煙が充満し、しばしば採掘を休止 することもあるほどだったが、慎吾等の努力でよく八十万斤、百万斤の生産目標を達成 し、その都度藩主から将士を賜っている。
 明治元年八月の戊辰戦争では花輪給人隊二番手に属し、大砲方頭首として砲二門を預 かり、十三人の隊士を率いて出陣している。その年の十一月、老境の父九兵衛が隠居し 、慎吾は内田家六代目の家督を継いだ。
 
 明治四年、大蔵大輔タユウ井上薫は村井茂兵衛から強引に銅山を没収し、同郷の政商岡田 平蔵に無償に近い価格で払い下げた。慎吾は抗議の意味もあったのか、採掘不適当と称し て職を辞し、その後は各地の鉱山を回り、新山の発見につとめた。同十三年再び尾去沢 に戻り、数年間支配人格として勤め、同二十七年に尾去沢村名誉村長に推された。
 その後尾去沢大火の復興、三陸津波の救援などに活躍し、日清戦争では進んで軍資金 を献納している。大正十年五月、八十四歳をもって波乱の生涯をとじた。達識の郡長小 田島由義は氏の末弟である。

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