鹿角の近代人物伝
 
…… 武術の指導者、児玉道場主 ……
△児玉高慶   明治二十一年(1888)〜昭和四年(1929)
 大正十四年五月、摂政宮殿下(昭和天皇)御臨席のもとに、宮内省において剣道特別 試合が催された。決勝に進んだのは山岡鉄舟の高弟で京都武術専門学校長西久保弘道と 児玉高慶であった。
 高慶は、日本一の剛剣と称された西久保得意の体当たりをはじきかえし、必勝の諸手 突きで優勝の栄冠を手にした。御台覧の殿下が「あれが秋田の児玉高慶か」と、三度も 仰せられたということである。
 
 児玉高慶は明治二十一年九月九日、豪農猪太郎の長子として柴内村小枝指に生まれた 。幼少のころは身体が弱く、小学校も一年遅れて入学するほどであった。父猪太郎は、 由緒ある武家の総領として心身を鍛えなければならない、と邸内に道場を建て、福永清 風・工藤祐将を招いて師とした。後、戊辰戦争で鬼桂オニカツラと恐れられた南部藩指南役桂 菅七郎を師に迎えている。
 
 平元小学校卒業後花輪高等小学校に進んだが、十三歳で父の急死にあい、後は専ら家 庭教師について勉学した。病弱だった身体も体重三十四貫(一二七キロ)、鋼鉄のよう な偉丈夫に鍛えあげられた。十六歳で上京し、学業の傍ら芝の町道場で修業し、十九歳 で加納治五郎の講道館に入門、二十二歳の時、中山博道の有信館に学び、柔剣道とも五 段精錬証となった(没後柔道教師を贈られる)。
 
 帰郷後、全く私費をもって児玉道場を開設し、青少年の指導に当たったが、秋田県内 外から名声を慕って入門する者が多く、実に千二百余名に及んでいる。その中の有段者 は百数十名を数え「村の作男も四段、日本一武道村」と報道された。かつて両手足に米 一俵ずつ、三俵を背負い、道場を二回りしたと伝えられている。氏は温厚篤実、単なる 武道の師に止まらず、広く人材を養成し、社会教育に 資すること大なるものがあった。
 昭和四年四十二歳の若さで急逝したが、長生きをしていたら、日本一の剣士となった ことであろう。
 
 夫人寿子は、石川寿次郎海軍中佐(日露戦争で戦死)の一人娘で、中山博道に師事し 、神道夢想流杖術の錬士となり、花輪・大館高等女学校において、杖術を指導した人であ る。

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