鹿角の近代人物伝 |
郷土の教育文化、産業発展に貢献した人に 立山弟四郎翁 がいる。 弟四郎は慶応三年、内藤周蔵の二男として毛馬内村に生まれた。明治十二年毛馬内学校 卒業に当たり、友人の内藤虎次郎・泉沢恒臧・井上米太郎・内藤練八郎の四人は秋田師範に 遊学した。氏は、俺は郷土で頑張る、と書簡をよせているが、向学の念を捨て難かった のか、同二十年上京し、英数学舎で山本祐七に学んでいる。 その後は独学力行、あらゆる分野で一家をなし、立山博士の愛称で町民に親しまれた 。翌二十一年、母方の叔父立山周助の養嗣子に迎えられ、長女キサと結婚したが、養母 は間もなく林平を産んだ。林平はまれにみる俊才で学問で身を立て、家業は弟四郎が継 いだ。 翁の数多い功績の中で、最も人々に親しまれたのは、銀婚式記念に創設した立山文庫 で、年々巨額の私費を投じて書籍を購入している。文庫の経営と巡回文庫の回覧は、郷 土の青少年に量り知れない恩恵を与えた。戦後一万余の蔵書をあげて十和田町に寄贈さ れたが、現在立山文庫継承鹿角市立十和田図書館となっている。 文庫経営と並んで、私費をもって主催した天神祭・歌道国の華会も記憶に新たなことで ある。 生家の兄蔵司が早逝し、若い弟順吉を助けて、両家の小作人組合をつくり、暗きょ排 水や耕地整理を行った。小作人を指導しての農事改良は、篤農家弟四郎と高い評価を受 け、種苗交換会の花形となった。秋田県史には、瀬田石暗きょ排水は、本県最初と記録 されている。 また重役として秋田鉄道の建設に当たり、勝又清毅と鹿角自動車会社を設立して、郷 土の交通整備に寄与した。和井内貞行を助けて、十和田湖観光開発に尽くしたのも、そ の一環である。 大正三年に関善次郎と諮り、鹿角電灯会社を興し、小阪、毛馬内、花輪に電灯を導入 している。 昭和三年と同十一年、教育功労、農事功労者として、観桜の宴に召された。 同十二年享年七十一歳で病没したが、旧十和田町では、三十四年に銅像を贈り、その 功績をたたえている。 |