〈他藩における凶作〉
 
                     参考:武内印刷出版部発行「佐竹物語」
 
〈飢饉〉
 飢饉キキンは飢渇キカツ・ケカツと云う漢語から転訛したしたものとされ、飢渇が訛って「けが
じ」となったのであろう。
 凶作の自然的原因には霖雨リンウ・冷温・大風・洪水・旱魃カンバツ・霜害などの気象条件の他
に、虫害・獣害などがあるが、過去における最大の原因は、霖雨冷温を伴う偏東風、いわ
ゆる「ヤマセ」風であった。
 
 江戸時代における東北地方の四大飢饉は、元禄八年(1695)、宝暦五年(1755)、天
明三年(1783)、天保四年(1833)と云われ、わけても天保四年の飢饉は「巳年ミドシの
ケガジ」と云って、今でも古老によってその惨状が語り継がれている。
 南部藩では豊凶の定義を次のように区別している。不作=四分の一減、凶作=半減、
大凶作=四分の三減、飢饉=多量の餓死者を伴うもの。
 
〈元禄八年〉
 七日市村(北秋田郡)の肝煎キモイリ長崎七左エ門の記録によると、元禄八年の飢饉のと
きは、春から東風が時々吹いて、夏中は寒くて稲の穂の出ないものが多く、畑作物にも
実が入らなかった。そのため、大部分の家では藁ワラや蕎麦柄ソバカラを食糧とし、又は、稲
株の根を洗って臼で搗ツき、蕨ワラビの根を粉にしたものを混ぜて食べたが、これも食い尽
くしたので、遂には屋根の萱カヤを結んでいた縄を粉にして食べたとと云う。
 
〈宝暦五年〉
 宝暦四年(1754)七月十日、鷹巣地方(北秋田郡)に、水魄スイハク(ウンカ)と云う虫
が大量に飛んできて、実って垂れている稲の穂を吸い取り、反り返ってしまったが、そ
の虫を退治する方法が分からなかったと云う。
 このウンカは、遠く中国大陸から、上空を吹いている西風に乗って飛来するものと云
われ、享保十七年(1732)には、九州から四国、中国地方を経て、関西地方にまで蔓延
していったことが、西日本の大虫害記録に載っている。
 その後も稲虫のための不作は毎年のようにあったが、鯨油などを使って退治する方法
がようやく考えられ、大虫害による凶作を免れることが出来た。
 
〈天明三年〉
 次は、農聖と云われた長崎七左エ門著『老農置みやげ添日記』の一節である。
 天明三年の正月十六日は、朝から東風が吹き始め、昼からいよいよ強くなり、大吹雪
のため往来が止まった。全て正月十六日の風は、どちらから吹く風でも、その年一年は、
その方向からの風がしばしば吹くとの言い伝えがある。確かにそういうもののようだ。
元禄の青代アオダイ(元禄八年の飢饉)と云われたときも、正月十六日に東風が強かったと
聞いている。百姓に限らず考え深い人は、これらの事に気がついて人々に教えたならば、
人々はそれに基づいて、苗代の頃からずっと田の水の掛け引きなどにも注意して、収穫
皆無と云う不作は免れることが出来るだろう。
 
 津軽藩(青森県)の稲作は、他領に劣らぬ生産力を持っていたが、安永年間(1772〜
80)からの不作は天明元年、二年(1781,1782)まで続いたので、徹底的な節約対策がと
られていた。
 即ち、穀物の他国売り出しを禁じ、領内残らず米の上納を命じて諸所に米留役所を置
き、港々にも役人を派遣して他領に流出するのを厳重に監視した。
 天明三年もまた、八月中旬まで殆ど快晴を見ることがなく、霜が降りる状態で、冷害
による大凶作となった。従って、領内には貯米は殆ど無く、年末には藩にも買越米の代
金も無くなってしまったため、領民の困窮は実に言語に絶するものがあった。
 このような年にもかかわらず、藩では前年上納させてあった米四十万俵を、全部大坂・
江戸へと回送したので、月を経るにつれ餓死・凍死の者が続々現れ、忽ちにして屍は山を
なし、一丈四方の穴を七ケ所掘って葬ったと云う。
 こうした世相に強盗・追剥オイハギ・火付けが横行し、食用に犬猫・牛馬は無論人肉をも食
う有様は、さながら生地獄で、特に子供や娘は殺され、親子兄弟相食ハむの鬼畜道に陥っ
た。そこで高タカ無しの小百姓(水呑百姓)は無論、大百姓も田畑家屋敷を打ち捨てて、
家族相伴い見回り品を背負い、伊勢参りの態を装って碇ヶ関口(青森県)から、秋田領
へと逃れる者が多数現れ、後には公然と脱走する者が一日に数百人にも及んだ。
 
 この当時、津軽藩主は江戸在住であったので、国元では側用人ソバヨウニンの大谷津七郎ら
が専ら権威を奮っており、家老森岡主膳・用人山田彦兵衛などと心を合わせて、領民の死
亡離散の実状を深く隠していた。
 このような背景の下、天明三年七月十五日には十三トサ港町に、二十日は青森町に、二
十二日には鯵ヶ沢町に、そして三十日には深浦で、米の移出中止の町方騒動が相次ぎ、
打ち壊しを伴う大騒動が湧き起こった。
 これらの町方騒動は商工民であったが、その影響は飢餓キガに喘アエぐ百姓にも及び、七
月二十六日木造キヅクリ新田の百姓二千余人が、十一年前から凶作用にと強制的に供出させ
られていた貯米を、直ちに返せと郡コオリ奉行と対決したが、徒党の要求を受け入れるよう
に見せかけて、一揆が静かに引き揚げた数日後、「大勢群集強訴ゴウソに及候段不届至極
」との理由で、首謀者と思われる者七人を入牢したので、指導者を失った一揆は全く無
力化し、遂に解散に追いやられ、無惨な敗北に終わってしまった。
 
 こうなると、後は坐して死を待つか、他領へ逃散チョウサンするしか道がない。こうして、
逃散は七月下旬金木・木造新田方面から始まり、上磯一帯にも拡がり、百姓達は伊勢参り
その他の形を装って秋田領・南部領・仙台領へと逃亡した。その数は数万人にも及んだと
云う。しかし、これらの逃散者達の多くは、目的地に達することが出来ず、途中で餓死
してしまったと云われている。
 このように天明三年の津軽の飢饉は、天災に加えて人災によってもたらされた大惨事
であった。
 
〈天保四年〉
 天明三年の大飢饉から五十年経った天保四年は、前にも劣らない程の大凶作となって
しまった。隣国の津軽や南部地方も同様の凶作となったので、津軽からの流民ルミンは、ま
たまた集団をなして秋田県北地方へとなだれ込んで来た。翌五年春からは疫病が蔓延し、
秋田藩内の全域にわたって餓死者が続出したので、生々しい大惨状の記録が各地に残さ
れている。
 津軽藩でも、『津軽ケガジ物語』には次のように述べている。
 
 天保二年は、津軽では豊作だったが、秋田・松前方面は凶作であったので、翌年の正月
には、秋田方面から流れて来る乞食コジキ非人ヒニンが多かった。
 天保四年は、三月下旬に大雪となり春が遅れ、苗の生育も悪く、夏中は寒く、七月の
ねぷた祭の頃となっても蚊カの音、蝉の声なども聞けなかった。七月の半ばは、日光が白
色を帯びて夜半の鏡の如く、日中といえども月夜のように薄暗く、太陽がかすんで見え
ていた。九月中旬に二尺余の降雪があり、十月には雪を掘って検見ケミをする有様で、藁
ワラを刈り取ることも出来なかった。
 
 久しく豊満に慣れていた領民も、俄かに狼狽して秋頃から先を争って山野の糧物カテモノ
を取り集めた。
 米価はものすごく暴騰し、庶民は家財道具を売り払い、僅かに糊口ココウを凌シノぎ、松前
・秋田・越後へと離散する者数千人と数知れなかった。
 この頃、津軽藩には備荒ビコウの貯穀も相当あったが、何故か藩では窮民への放出を躊
躇タメラい、逃亡者が余りにも多くなったため、漸く救恤米キュウジュツマイの放出をしたが、既
に手遅れであった。
 このような状態は天保十年まで続いた、天保四年から十年までの他国へ逃散した者は
四万七千人であると、郡方コオリカタの報告が出ている。
 このほか、他散の大部分は秋田へとなだれ込んだので、秋田藩内での惨状は、天明期
を遥かに上回る結果となったのであった。
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