13 ななかまどの伝説(湯瀬)
 
        参考:八幡平地区連合青年会発行「むらのいぶき(八幡平の民俗)」
 
 平安の後期、陸奥、出羽の豪族清原氏の内紛を、陸奥守として赴任してきた源義家が
平定した戦いを「後三年の役」とされている。この戦いで敗れた清原家衡の妻子は、僅
かな家来と共に逃避を続け、追手を逃れて辿り着いたのが湯瀬の下も手にある「ななか
まど」であると言われる。
 ななかまどは米代川の清流に臨み、向いに名勝「姫子松」を眺める絶好の立地条件に
あり、大きな岩が屋根のように覆うている岩屋である。
 この中に戦いに敗れ、悲しい思い出を秘めて上る七つの烟は、世を逃れた姿とはいえ、
あまりに痛ましく、住民の眼に映ったことであろう。
 このことが人々の口にされ、噂が広まる頃には、いづこにか去ってしまったという。
 今は碇発電所の取水用の堤のために土砂が入り、過去の広々とした岩屋には一杯の水
が青々と澱んでいる。
 
 明治の文筆者で詩人の杉村楚人冠はこの地を訪れ、古に思いを馳せ美しい自然に接し
て次の詩を残したことは、あまりにも有名である。
   湯瀬の松風
 湯瀬の名に負う  瀬々の湯の
 米代川に     立つ烟
 熱い思いは    七竈ナナカマド
 とざして胸に   姫子松
 さあらぬ逢う瀬  幾かさ松の
 いつしかそれと  通へ松風
 
 
1300湯瀬ななかまどの由来
 
                    参考:鹿角市発行「陸中の国鹿角の伝説」
 
 米代川を上ってもう少しで湯瀬に村に着く処の川の向こうに、姫子松ヒメコマツと云う名勝
地があるのを覚えているでしょう。その向かい(即ち手前)の川の辺りに、大きな岩の
洞穴ホラアナが七つあり、此処ココを「ななかまど」と云っております。どうして、そのよう
に云われるようになったか、その訳を話して上げましょう。
 
 今(平成4年頃)から九百年前も昔、都が京都にあった平安時代の半ばもずっと過ぎ
た頃、奥羽地方で前九年ゼンクネンの役エキと云う戦イクサがありました。この戦いで、都から来
ていた大将の源義家ミナモトノヨシイエ(八幡太郎義家とも)が勝ったので、相手の大将である清
原家衡キヨハラノイエハラを処刑しました。そこで、家衡の妻子も危うくなったので、数人の家来
達に守られながら逃げ延びて湯瀬まで来ました。川の辺りを歩いて来たら、隠れて住む
に丁度良い岩穴が、七つもあったために、此処へ隠れて暫く暮らすことにしました。
 
 この由緒ユイショある落人オチビトの一行が、雨露アメツユをやっと凌シノぐばかりの岩穴の辺りか
ら、朝方や夕方バンカタには、食べ物を煮炊ニタきする竈カマドの火の煙が、細々と立ち上ノボ
るのが見えました。この煙を見た人達は、其処をななかまどと云うようになりました。
また、この細々とした煙を見て、戦いに敗れ、世間の目を逃げてひっそり隠れて暮らし
ていた人達の悲しい運命のようだと、言う人もありました。また、見る人の涙を誘った
り、同情する人も出て来たと云います。
 そのうちに、このことが噂となって広がったために、辺りにこの人達のことを見よう
とする人の目が増えてきました。それから間もなくある日のこと、この気の毒な母子オヤコ
と家来の主従の一行の姿が、見えなくなってしまいました。これは、此処にこれ以上長
く居れば、村の人に迷惑をかけることになると思って、出て行ったのではないかと、一
行の気遣いに感心した、とのお話です。
 
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