1251二所関の墓石(長嶺)
 
    参考:八幡平地区老人クラブ連合会老人大学学習記録集「八幡平伝承ひろい」
 
 長嶺の西館墓地は眺望の良い段地上にあり、中でも一際目立つ墓石がある。その墓石
は重さ百十貫ばかりで、その下に静かに眠る沢庵沢風居士は、幕末の文化文政年間の頃、
当長嶺出身の怪力士で江戸角力、二所関軍右衛門、シコ名は沢風関である。
 二所関軍右衛門は、長嶺の阿部甚之助家七代前の先祖に当たる甚之丞の次男として生
まれ、幼名は甚八、幼児より人に優れた体格と力量の所有者でした。
 甚八が六歳当時のこと、長嶺から花輪町まで二里の道を米俵一俵を背負って、父と共
に歩いて行って届けた、との話が残っている。家を出て一里ばかり歩いた大里村で、小
便をして一休みし、それから一気に花輪町まで歩き続けたと云う。
 
 甚八が十五歳の時、南部藩御陸尺にとられ、藩主南部利斉公の御側に仕え、特に藩主
のお気に入りで、怪力を発揮して人々を驚かせた話がいろいろあると云う。
 その後甚八は藩公の意を受けて、御抱え力士として江戸角力に入り、シコ名を沢風と
称し、二所関一門に入りました。それから沢風関の力士生活は烈しい練磨、苦闘の時代
を経て、やがて沢風関は、江戸角力として禁手三つを申し渡される程の怪力の強者とな
り、角界の第一人者となった。即ち三つの禁手とは、カンヌキ、ハリテ、カワズガケの
三手で、相手力士の怪我を防ぐために絶対に用いてはならないと云う、沢風関だけの個
人的な厳しい定めであったと云われている。
 沢風関は、地位としては十両筆頭止まりであったが、これは当時江戸角力としての、
関西角力と対向して行くための一つの方策であったと言い伝えられている。
 
 その後沢風関は二所関部屋の親方を継いで、二所関軍右衛門として、全国的にその名
を知られるようになった。
 江戸角力の本場所で、角界を風靡した沢風関の全盛時代の頃、文政十年に毛馬内出身
の者が、江戸角力の本場所を見た古記録に、大関を破って日本一の角力取りになった二
所関軍右衛門の事が出ておりますが、これは沢風二十四歳の頃であった。
 その後天保九年、遂に病を得て郷里長嶺に帰り、三十六歳の若さを以て遂に一代を終
えたと云う。
 沢風は闘病生活の間にも、一日も体を鍛えることを止めなかった。即ち毎日、八幡神
社に祈願しながら、二百余段の石段急坂を両手に米一俵ずつ下げながら、上り下りした
と云う。
 そして自分の死後のため、大きな自然石を川原から運んで、墓石として残したと云う。
 なお昭和二十五年、八幡平中学校(当時の鹿南中学校)で大相撲興行の折、二所関一
門の墓参と供養相撲が行われました。

[次へ進む] [バック]