追補
 
 「小田という地名」の追補
 第二節の(B)(C)二項中、小田郡、少田郡は、吉田博士の地名辞書中に、その名
目だけは見えるが、現在その地名は宮城県(陸中)に残っていない。例の「黄金山神社
考」を物した沖安海は、「今の遠田郡(小牛田村の西なる)牛飼村那和名抄の牛甘郡」
がそれであろうと言っている。然し、私はこの説は信じない。とにかく現在宮城県に小
田という地名はないということだけは断っておきたい。
 
 長坂実地踏査記
 前に述べた「長坂の古碑」に就いては、尾去沢村の古老の言であると言って、川口氏
から伝えられたものであったので、実地踏査をすることに興味を覚え、去る十一月十二
日、風雨を犯して決行した。同行は、宮城佐次郎氏と川口義弥氏、外に案内人の土地の
青年一人を雇って都合四名の一隊である。
 
 この日、朝の中は晴曇半の天候であったが、尾去沢鉱山大煙突の下あたりを過ぐる頃
から風雨強く、お獅子権現を過ぎて赤沢越えの頂上あたりは、氷雨を交えたような暴風
雨であった。一行四名は、寒さに震えながら全身濡れ鼠よろしくの姿で勇を決して前進
をつゞけ、目的地に達したのであったが、流石、困苦に耐えた効果はあって、予想外の
収穫があったことを喜んだ。往昔長坂千軒と謡われただけあって、その規模の予想以上
に宏大なことに、一驚を喫した。長坂では今盛んに、往昔選鉱精錬などの跡から流滓の
土を掘っていた。見た目にはつまらぬ土塊に過ぎないが、この中に黄金の含まれている
ことを思えば、そのかみの鉱業の状況が偲ばれる。風雨中に立働いている従業員の監督
の方の案内で十分調査を遂げたが、元、八ケ寺あったと言われる渓谷の方の境内跡をば
風雨のため、踏査出来なかったことは頗る遺憾であった。寺院跡の境内を発掘したら、
定めし獲物があったろう。しかるに土地の人達は墳墓跡を荒らすことは祟りがあると信
じて肯ガエンじないらしい。夕方川口氏お宅に再度御厄介になり、炬燵の中で陶然たる気
分のをり、話合った中に「千年以上の墓なら已に時効にかゝって神も仏もとがめまい」
と宮城氏と三人相顧みて呵々大笑したのであった。
 
 今回の調査は、例の古碑探査が主要目的であったが、風雨と寒気と、渓谷など、天候、
地理の関係で探しかねたのが遺憾であった。恐らく八ケ寺跡あたりか、さもなくば、例
の往古の流滓採鉱工事のため破壊されて、現在では湮滅し終わったか、この辺の消息は、
この次第二回の踏査の折に判明することだろう。
 
 長坂あたりは、渓谷の奇勝、楓樹の美観とが実に絶景であったから、宮城氏と明年の
観楓の好適時を約して再遊を兼ね、史蹟踏査を再び試みることゝして、一先ず此処に惜
しい別れを告げた。
 享保、安永、安政、寛政あたりの碑は、この度実見したが、土地の人々は千年以上も
古くから栄えたことを信じて疑わないことは事実である。廃坑の跡(シキ)も散在して、
岩屋式という比較的古い型のものであるというが、専門家が調査したら一層面白かろう
と思った。
 
 長坂千軒と謡われた面影は、今は已にないが、この山中の峰々谷々の屋敷跡の宏大さ
に瞠目して、当時の繁栄を偲ばせられたのである。永久沢と呼ばれる沢の辺に市が立っ
て、かなり栄えたものだという古老の言も尤もだと合点せられた。現在鉱山には、一宇
の寺院もない有様から考えて、当時八ケ寺と言われた頃の仏教繁昌も偲ばれた。
 
 最後に、この度の踏査に、御案内の労をとられ、且つ又鄭重なもてなしを賜った川口
義弥氏、種々御便宜を与えて下さった尾去沢小学校長沢口正三氏、同田郡分教場主任川
口敬助氏、同赤沢分教場主任石井サダ子氏及び同行御足労を煩わした宮城佐次郎氏に深
甚の謝意を表するものである。
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