鹿角の古墳
県内(秋田県)のユートピア鹿角の里は、考古学上まだまだ秘められた宝庫があるら
しい。謎の郷鹿角には、探せば古墳も相当あると思う。茲に古墳について一言すること
は、「小田郡」の考証に縁が無い訳ではない。何となれば鹿角の古代文化を究めること
は、「小田郡」考定の傍証となることゝ考えられるからである。
本邦最初の産金の史実から凡そ四百年前の仁徳天皇の五十五年に、田道将軍が征夷の
折、伊寺の水門で戦死されたことは、第七節中に略述してあるが、端なくも、それは鹿
角郡錦木村猿賀野であり、その地に墳墓と推定されるものや、社殿が現在することを知
り、明治二十三年水戸の学者青山延寿の「田道将軍墳墓並詞廟考」となり、又「擬褒崇
田道詞廟調」となり、時の鹿角郡長小田島由義氏は、関係考証書類一切を具して、秋田
県知事鈴木大亮に宛て上申した。更に別格官幣社に列せられんことを内務省に申請した
ところ、秋田県書記官小川弘水の名により、明治二十四年小田島由義氏宛、「詮議相成
難き旨、内務省より通報有之候条御了承相成度、此段通牒に及び候也」という通牒に接
し、苦心は水泡に帰した。然るにこの却下の内容は、小田島翁の感奮記に拠ると、「(
前略)社格ニ適スル神官並ニ予備資ノ充備等彼此弐万円ニ近キ資金ヲ要スベキ所実際ハ
現今当局ニ資金ノ余裕ナクシテ差当リ其出所ナシ故ニ不得止目下詮議ニ及ビ難キ(後略
)」という事情の為からであることは事実のようである。全く資金難という次第で惜し
い事である。
「日本書紀」にある田道将軍の事蹟は、この猿賀野に関係深いことは「猿賀神社由来
記」中に収載してある。青山延寿、南摩綱紀、三島毅等の考証或は批評等により、うな
ずかれる節が多い。私は寧ろこれを信ずるものである。こういう古い事蹟を持つ鹿角の
地には、随所に古墳もあるらしい。また踏査をしていないが、この機会に行脚をこゝろ
ざすことに決心している。
却説、明治四十四年から大正元年にかけて、この猿賀野から程遠からぬ錦木村枯草木
坂という畑地内から、古墳を発見して、発掘したところ、大刀金具、鞘尻、□、鉄□、
刀身残片、鉄鏃残片、切子玉、丸玉、小玉、勾玉、陶器残片、土器残片、木炭片等約六
十点が出土した。その内鉄鏃残片は一包みになってあり、四囲に木炭を埋めてあった。
切子玉、勾玉類は水晶、玻璃製、碧玉、瑪瑙等の種類であった。
この出土の物品に関しては、高橋健自博士が「考古学雑誌」に詳細なる考証を掲げて
あり、その全文は大正二年九月発行の「鹿角郡案内」に掲載されてあるが、同博士の考
証では「元慶の頃、内地より彼の地に入り込みし純大和民族が、尚玉の御統を着装しつ
ゝありしとは思われねば、これ等の遺物は、夙に大和民族に接触し熟化したる蝦夷即ち
俘囚の輩が大和民族より受得たりしものに非ざるかと思わるゝなり云々」
とあり、蝦夷の酋長かと思わるゝものゝ墳墓であろうとの説であるが、これは少しく研
究の余地が存するようだ。
内藤湖南博士は、大正元年八月帰省せられた折、この出土の曲玉類を実見せられ、左
のような記事を物せられた。「古塚はケールン即ち積石塚の一種にして、満州地方に最
も多けれども、本邦においては究めて少き者あり(中略)その附近なる泉森(旧名蝦夷
森)よりも大なる刀片、□部土器等を発見し、千人塚と称する処には人骨を発掘せりと
云ふ。未だ発掘せられざる古塚も猶存せるが如し。大正元年八月二十日、余は帰省の暇
を以て佐藤定吉の蔵品を一覧し、且つその発掘をも親しく踏査し、その少くとも千三四
百年以上の古墳にして、而も我邦において現在知らるゝ限り最北に存するにより、東北
文化史の貴重なる資料たるべきを断ぜり。その果して朝廷の命官に係るや将た俘囚の古
族に属する者なるや、猶一層の研究を必要とすべし」とある。
是によって此を見れば、鹿角の古代文化も今後の研究によって、闡明せられ、尾去沢
村小田郡が二千年以前の聖武帝時代に、はじめて貢金した地であると考定せられる日の
一日も早からんことを切望するものである。私のこの未定稿の如きは、全くの陳呉で取
るに足らぬものであることは言うまでもないが、必ずや反響を得て、有識の士の鉄案を
庶幾して止まない。
(十一月十九日追記)
[バック]