「鹿角志」について
本稿起草に当たって、地理沿革等の項は、「鹿角志」に示唆を受くる所が多い。同書
は、湖南博士の厳父内藤十湾翁の編する所、引証精確、紀事該博、鹿角の真面目を伝う
るに十分なるものと信ずる。凡て四巻、巻一年代、巻二制度、巻三地理、巻四人物より
成る。七十余歳を以て、遍く故家旧族を訪い、祠廟寺院を歴訪し、或は早年から勝蹟を
探り、山沢を跋渉して胸臆に収め、数年を費やして完成したものである。原本は絶版入
手に困難の折柄、「秋田叢書」に収められんことを切望する。
尾去沢村小田郡視察記並川口氏の事共
昭和七年十突き中旬、本校職員二名と、秋色を賞でながら小田郡の遺蹟探訪に向かっ
た。元来小田郡には旧家川口氏があり、尤も事情に通暁していられるので種々御援助を
乞うた所、当日わざわざ東道の主となられた。川口家宗家の川口義弥氏は、現に尾去沢
小学校に奉職せられたいるが、厳父恒蔵氏はかくれたる学者であった。明治二十七年三
十歳の若さを以て逝去せられたが、現在まで生存して居られたならば、恐らく学会に屹
として内藤湖南博士と共に同郷の碩学と崇められたであろうと信ずる。氏は東洋大学の
前身、哲学舘に学び、後國學院に入り、同校第一期の卒業生である。業成って後、盛岡
中学から招聘されたが固辞して家に在り、著述に従事せられた。
「歌舞音曲史」中の雅楽のべを纏められて、当時の雑誌に掲載せられたが、遺稿は現
存して居らぬは遺憾である。併も春秋に富む身を以て幾多の抱負見識を胸臆に秘めたま
ゝ逝かれたことは、返す返すも悔しきことである。現当主義弥氏は厳君の血を享けて、
国学研究に沈潜せられていたが、余等一行三名の東道となられたことは、余にとっては
こよなき愉快であった。
尾去沢鉱山採鉱課に小憩して、陳列棚の数多の鉱石、或は原始的な選鉱具の発掘品な
どを参観して、いよいよカンテラ片手に坑道に入ることゝなった。坑道を抜けて反対側
に出れば、その出口が小田郡なのである。坑道の繁栄さは、三菱の繁栄さを物語るもの
である。実に四通八達とはこの事であろう。如之上下するエレベーターのワイヤー、ト
ロッコの響きは、不況時代も何のその、実に黄金湧く谷である、黄金花咲く山である。
左右上下の坑道に眼を配りながら、カンテラの薄明かりに小暗いトロッコの軌道の側
を辿りつゝ行くこと三十分にして、坑道を出た。陰に籠った息づまるような空気の中か
ら、明るい天地の間にポカリと抛り出されたような気分で、眺める小田郡の風景は全く
別天地である。遠く近く蜿蜿起伏する四囲の山々、実に大洋の波涛にも髣髴たるものが
ある。見渡す限り山又山の層々累々たる感じの中に、九百年の昔を偲べば、何とも言え
ぬ興趣を覚える。田郡、小田郡、前平、夏山、長坂、大葛、赤沢、元山など指呼の間に
あり、何れも呼べば答えんする気勢を示している。これ等の丘陵然たる山々は、皆金気
を蔵して黙然としているのである。又、山々は何れも錦繍を織りなし、路傍の潅木には
小さい紅玉にも似た実をつけて、枝移りする小鳥の囀りも長閑に響いて来る。木の葉を
そよがす軟らかい秋風の楽は、全く仙郷を憶ばせるばかりである。余等一行三人は、唯
呆然として佇んだが、斧の柄の朽ちぬ内にと、小径を攀じたり、渓流に杖を浸したりし
ながら、目的の獲物を目ざした。沈思黙考の余幾何かの収穫をしてその日の仕事を終わ
ると、今度は川口氏の邸に案内せられた。かかる山間僻所には珍しい大きい構えで、眺
望頗る開け、庭前の菊は、妍を競っていた。掃き清められた庭や調度書棚の整然たる座
敷を見ると、神官の住居にも似た神々しさ奥床しさを感じた。客室に請ぜられて驚いた
ことは、和漢の書籍、写本等の堆高く収蔵されていることである。眉(木偏+眉)間
ビカンの肖像は言うまでもなく、颯爽たる厳父の擦筆画である。間もなく山海の珍味と芳
醇の銘酒とが運ばれ、ひたすら恐縮したが、折角の御厚意とてそれを甘受して歓談一時
間余り、暮れかかる秋の日を嘆きながら再び帰路も御案内の労を執られ、余等一行は無
事に帰宅することを得たのであった。今も猶眼前にあるのは母堂 − 厳父恒蔵氏の令夫
人 − と令室と、いたいけな令息、令嬢様とが、わざわざ門口まで見送って下さって、
残り惜しげにやさしい言葉をかけられた、あのなごやかな、仙郷の家居の有様である。
そしてまた、あたりの山から採められて用意された松茸の香味……。
本校は匆々の間に成り、全くの草稿のまゝ掲載され、且つ新聞紙の性質上、毎日切れ
切れになって読者に見える関係上、前後脈絡を欠く恐れあり、旁別に一部を□修して、
「秋田教育」誌上に投稿の予定であるから、首尾一貫した私のこの拙稿を張高覧下さる
ことを得れば幸甚である。且つ又高雅博識の士の御叱正に俟つや切である。敢えて一言
を加えて腹心を布くこと爾り。
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