一二、附記
(一)尾去沢鋪口の記録
 鋪(シキ)とは、坑のことである。この鋪口の記録に関するものは種々あることゝ思
うが、私の一見したものは、川口家に伝わる「尾去沢鉱山三沢鋪口年数諸山金銀銅鉱山
年数」と題するもので、川口富教氏の手記に係る数冊のものである。表紙には「慶長七
年壬亥五月十一日より此迄」と傍書してある。
 
 この記録によると、小田郡鋪は延享五年見立とある(見立とは発見という意味)、又
白根(現在の小真木)金山の条には「慶長三年戊戌年」とある。長坂鋪の条には「長坂
鋪盛りの事。元禄八年也、亥年銅山初まり、同子年黄金山見初、卯年より午年まで四ケ
年、大盛りにて三ケ月にて千両宛、御礼金御役立七分三分の割合にて、三分山師に云々
」と見える。その他諸々の□につき悉しく記録してある。私はただ一覧したので、その
際逐次調査しなかったので、その他の部分は省略する。
 
 さて、記録は最初の発見(見立)と解すべきか。又は、古く廃鉱の跡のあったところ
を発見して改めて鋪を設け、慶長頃に盛んに採掘に従事した記録であるか、その辺はあ
まり判明していない。現に小真木(白根)、大葛あたりでは、徳川時代或はその後廃坑
とした跡を再興して、現在ではかなり活気づいているではないか。北秋(北秋田郡のこ
と)あたりにもこの事実があり、又南秋(南秋田郡)あたりには豊臣時代に廃鉱とした
鋪あたりから再び採鉱に取りかゝったという事実が新聞にも報道されてある。慶長時代
は、徳川家康が天下に覇をとなえんとして、政治に経済に汲々としていた時代であった
から、大判、小判を大いに欲しがった時代であったのである。この際に金鉱の発見、採
金の奨励等に大なる関心を持ったことは十分推察され、且つ又事実であった。かういう
折柄であると、古代の廃坑の跡などは第一に着目され、且つ又見立などに努力されるこ
とは当然である。所謂山吹色の慶長小判などもこの時代に鋳造されたもので、尾去沢の
鋪から出た黄金も或は此仲間入りしたことであろう。
 
 この「尾去沢鋪口年数」の記録も、尾去沢の処女鋪でなく、□武帝時代に已に見立て
られたものが廃坑になったか、或は事業を中止してあったかの跡へ、別の鋪を見立てゝ
採鉱しはじめたと推察されぬことはない。前記の小真木といい、大葛といい、廃坑或は
中止の鋪がこの不景気、川瀬下落、金価暴騰の折に俄然として再挙せられたものであり、
崎、長坂の如きは、古い流滓の土さえ採集せられて精錬している現状であるのに鑑みて
も頷かれることゝ思う。
 
 花輪町の円徳寺は、元、長坂に在ったものが、慶長時代に高寺の(尾去沢と花軒田と
の間の丘陵)というところに移転し、それから更に花輪町に移転したものだという。こ
れは長□が衰微したためであり、この頃西道鋪は俄然活気を呈し、その頃西道千戸(所
謂工夫長屋の千戸であろう)と号したという。この西道は、慶長年間の見立の記録があ
るから、西道より先に栄えた筈の長坂は、少なくとも慶長以前の見立であるべきを、前
記の記録には元禄八年とあり、この辺の辻褄が合わなくなるが、これは長坂が一時衰え
て、再び元禄年間に盛んになったものと解すれば、之亦合点せられる。殊に「御山法」
によれば、慶長時代には、山伏以外僧侶は尾去沢に入られぬ掟である。これを見れば、
長坂の八ケ寺は、少なくとも慶長以前であらねばならぬ。如之前記の記録に「長坂鋪盛
りの事、元禄八年銅山はじまり」とあるのは一考を要する。何となれば、はじめ金鉱で
あり、後に銅鉱となり、種々の事情で金鉱に変わる(金価の暴騰、或は金貨の必要等)
ことは、現在の小真木、大葛、尾去沢鉱山などがその例と見られぬことはあるまい。し
からば前記の長坂の「元禄八年銅山はじまり」の記録以前、記録されなかった金鉱見立
の時代がなかったと誰が言明出来よう。
 
 これを要するに、前記の川口富教氏の手記に係る記録は、表紙傍書の通り、単に慶長
七年以後の記録にとゞまり、それ以前は欠けていると見倣し得るという推察も出来ると
いう結論に達するのである。(註、西道、長坂、崎は何れも尾去沢村)(因みに、「長
坂の古碑」と題する項を設けて、茲に掲載する予定のところ、後記の如き事情により、
その項は一時発表することを保留することにした。)
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