一〇、小田郡と遠田郡
 「日本書紀」成務記によれば国郡を分かったことがわかり、白石の「五十四郡考」に
よれば、この朝に八郡を分かったとある。併し小田郡は見えない。降って応神天皇以後
十一郡となったことも見えるが、小田郡は見当たらない。「延喜式」巻十二民部上に始
めて「陸奥。大管」とあり、白河以下三十五郡が列挙され、小田郡、遠田郡が例記され
ている。「和名抄」「拾芥抄」も皆然り。更に降って室町時代の撰と推定せられる「節
用集」には、五十四郡を挙げてあり、茲に始めて鹿角の地名が見える。尤も「五十四郡
考」には五十二郡の称も見える。かく観じ来れば、世の降るの従い、奥地も開発せられ、
漸次所管の分合が行われたことは明瞭である。土地膨大にして未開の陸奥の地が、王化
にうるおうに随い、郡の数も増し、官吏、官庁の整備する有様が想像せられる。然るに、
「皇学叢書本延喜式」の頭注にも見え、且つ学会の定説と思われる「小田郡が、遠田郡
に併合せられた」という考定は、私をして全然首肯せしめ得ぬことである。何となれば、
漸次開発せられつゝある膨大な土地に、何故あって郡の併合を行うべきかということで
ある。私の所見では、寧ろ大郡を分割して数郡に改称するということは当然であらねば
ならぬ。故に後世小田郡の見えぬには寧ろ、小田郡なる名称を廃して、数郡に改称した
と見ることを妥当と考える。たとえば毛野を分かって上毛野、下毛野と改称したのはそ
の一例である。ただし、二郡三郡に分割するならば、上、中、下、或は遠、近などの名
称に改めればよいのであるが、地勢その他の関係上、且つ又数郡に分割する時には、か
ゝる簡単なる名称では適当でないことは明らかである。これを要するに、小田郡は後世
遠田郡に併合せられたのではなくて、寧ろ小田郡が分割せられて数多の郡名を生じ、母
胎の郡名は消失したか、或は今も直一地方にその痕跡を止めているのではないかとの見
解を持つものである。若しも私推定に誤りなくば、尾去沢村の小田郡は、その証跡では
あるまいか。この点は後段に譲るとして、然からば小田郡の分割せられた郡名は奈何。
これは旧記の徴するものがないから確かな考証は出来ないが、試みに言うならば、「東
鑑」所載の伊沢、和我、稗貫、志波、江刺、岩手(弘仁二年には和我、□□、斯波三郡
が置かれたが「延喜式」には見えない)六郡などがそれではあるまいか。又「東鑑」に
見える葛岡、比内、糠部の一部も又「節用集」に見える葛岡、本吉、群栽、鹿角、比内
等の何れか、殊に鹿角などは小田郡から別れた郡名ではないかと思われる。かく観て来
れば、尾去沢村の田郡或は小田郡などは、母胎の痕跡と考えて実に面白い見解ではある
まいか。然し、現在私は次の二つの岐路を持つ考証に迷っている。その何れが正しいか、
或は何れが正しからず一顧の慣値なきかは識者の高教に俟つところである。
 
(一)尾去沢村小田郡が「延喜式」に見える小田郡の痕跡であろうかという所見。即ち
前記の如く、往昔の小田郡は数郡に分割せられ、母胎の小田郡は消失して、始めて貢金
した所在地たる尾去沢村小田郡に辛うじて旧名を留めたであろうとの推定。
(二)尾去沢村の小田郡は元来の旧名で、「続日本紀」の記事も、そのまゝ貢金の所在
地を挙げたものとの所見。従って、「万葉集」巻十八「小田なる山に云々」の小田なる
を小田という山と解釈する。即ち小田なるを小田に在ると解しても、小田郡内に在ると
解釈しない。
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