九、鹿角は古く何れの所管か
 尾去沢村を以て日本最初の産金地とするには、尾去沢村が鹿角郡の管内であるから、
鹿角郡が陸奥の管内でなければ、「続日本紀」の「陸奥国始貢黄金」の文献と符合せぬ
ことゝとなるのは当然である。鹿角郡は現在、陸中国に属し、秋田県管内であるが、南
部藩の旧記によれば、秋田領から或事情によって譲られたものゝようである。その所伝
は次の通りである。
 
 鹿角郡は、由来秋田藩の所領なりしが、その昔、南部家において世子のために秋田侯
の姫君を娶りしことあり。秋田侯乃ち二万石鹿角の一郡を贈り、以て肴とせり。然るに
その姫君の容貌たる三平二満、面は鬼女の如く、笑へば則ち益々醜笑、因って直ちに離
婚したるも肴は已に食し了れりとて、郡は遂に之を返還せず、是において永く南部藩の
所属となれりといふ。嘗て南の方、郡境を過ぎ旧盛岡藩の領地に観ずれば、燕子は類を
異にし、木通は葉数を異にするを見る。亦一奇といふべし。
 
 右は所伝の大略であるが、元来南部、秋田両藩は古くから親しからぬ間柄にあり、維
新当時は兵火の間に見えるという関係にもあったこと故、伝説も余程潤飾せられたもの
と考えられる。とにかく秋田藩から見れば姫君の件などは大分侮辱的な言辞でなければ
ならぬ。
 
 亦、第六節(E)項の「三代実録」の記事中に見える、上津野を鹿角の古名とするな
らば、これ亦秋田地下に属する云々とあるから出羽管内と見なければならない。然し第
六節(F)項の「節用集」(H)項の「古今版籍」の記載に徴すれば、明らかに陸奥管
内である。これ等の消息を綜合して考察すれば、地形の関係或は勢力の消長などの経緯
から、時に出羽管内に編入せられたこともあったであろうかと考えられる。
 
 私は第六節(E)項に一言述べおいたが、上津野が鹿角の古名とする説に疑義をはさ
むものである。即ち、後段に述べるが、聖武帝時代に始めて黄金を貢した地を旧南部領
の尾去沢村と推定する関係上から、又、鹿角が古くから陸奥所管であったと推定する所
見から、秋田地下たる上津野は、当然出羽管内の一地方で、現在の鹿角の地以外にある
のではないかと考えている。併し現在では確証もなく深い研究も試みていないので、一
般の定説に従ってしばらく上津野は鹿角の古名であろうということに根拠をおいて、所
管の変遷説を採ったのである。因みに「鹿角志」所載の那珂通高稿「陸中国鹿角郡記」
にも、私と略同様の意見を述べてあるが、「鹿角誌」編者の内藤十湾翁は、鹿角を以て
古来より陸奥の管と断言してある。那珂氏によれば、曾ては秋田も陸奥の地であったの
である。比内も亦然り、鹿角も陸奥の管であったこと勿論である。
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