八、尾去沢村小田郡
尾去沢村小田郡は、現在の尾去沢鉱山の坑道を越えて、反対側の坑道出口の附近であ
る。附近に、元山、前平、夏山、崎、永久沢、長坂、稍距って大葛オオクゾ、白根、小真木
など、何れも金鉱採鉱の跡、或は現に採鉱しつゝある地点が散在している。但し元山の
如きは、大正年間の大火によって家屋は全焼し、全く廃虚の哀をとゞめているが、その
地形から、往時栄えた有様が偲ばれるのである。崎からは、疇昔の選鉱の流滓の土を採
集して、土中に含まれる金分を採るトロッコが現在尾去沢の工場に運ばれつゝある。小
田郡の東南半里ばかりの地にある長坂は、曾て盛繁の頃は千戸以上の家屋が山谷中に櫛
比していたものだといわれるが、現在は一軒もなく、唯往昔を物語る墓石、板碑などが
土中から累々層々と頭を出しているだけである。又、寺院の跡、山神社の跡なども指呼
される。なお八百年以上と思わしき古碑も近年発見せられたので、その古き歴史を尋ね
ることが出来る。元山の慶長年間の発見に係るものと比較する時は、その年代の差の大
なるに驚く。唯元山にあった山神社こそ社格もよろしく、昇格の準備中、大正年間の大
火の厄にあい、凡て焼土と化し去り、建築物の影さえない有様で、記録をも凡て烏有に
帰した今日、尋ぬべき手がゝりのないのに落胆した。併し、小田郡も亦往昔採鉱の跡で、
附近に砂金を産したことも立証され、小丘に山神社の礎石もあるから(社殿は焼失して
亡い)、彼の涌谷村の黄金山神社だけを以て延喜式内のそれと合点するのは、早計では
なかろうか。況や黄金迫なるが故に黄金山神社とは、附会の嫌いもないではない。尾去
沢の小田郡附近こそ、事実上の黄金迫ならぬところは一つもないではないか。しかも山
神社も数ケ所にその跡を発見するのである(現在は鉱山事務所上方に新築して合祀され
てある)。尾去沢の小田郡が「続日本紀」所載のそれとすれば、黄金山神社は、その数
座の山神社の何れかゞ式内神社であったではなかろうか。惜しい哉焼失して記録も失亡
せる今日、文献の徴すべきものないのを遺憾とする。併し涌谷村の黄金山神社亦然りと
いはねばならぬ。況や附近に往昔産金の初伝や採鉱の跡さえ伝えられていることを聞か
ぬ(尤もこの点は他日調査する考えである)。
これに反し尾去沢村小田郡は、附近凡て採鉱の跡ならぬはなく、砂金の産出さえ立証
され、しかのみならず南部藩時代には、附近から産した砂金によって金鉱脈を知って採
鉱を始めた、という伝説もあり、これは確かな事実と推定せられる。
「延喜式」民部下陸奥国の貢物の条を見ると、「筆一百管、零羊角四具、砂金三百五
十両、その他昆布など」の種目が見える。恐らくこの砂金もこの地方の産物ではなかろ
うか。「続日本紀」に見える聖武紀中の「出金山神主小田郡日下部深淵授外少初位下」
とある山神主こそ、黄金山神社神官と推定されるが、単に山神主で黄金山神社主とは記
載されていない。沖氏の「黄金山神社」考の如きは、単なる推論か、附会の説としか考
えられないのは、無理からぬことではなかろうか。
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