七、鹿角上代文化史年表略
 僻陬地の鹿角が、上代において如何に上国との交渉を持ったかという事情を闡明し、
尾去沢地方の上代文化を研究するならば、尾去沢の小田郡が聖武帝時代に最初の産金地
であるという考証が唐突無稽でないことが分明するであろうと思う。故に年表の大略を
掲げて考証資料の一端とする。本表中の*印は伝説であるが、黒板博士によれば、伝説
もまた強ちに捨て去ることは妥当でないという見地から、掲げることゝした。猶本年表
は、大体曲田氏の研究「鹿角郷土誌」に拠って取捨したところが多いことを附記する。
但しこの年表は、内藤十湾翁の「鹿角誌」に負うところが多大であるように見受けられ
る。
 
*第十代崇神天皇 四十八年辛未(六一一)山雄呂豊丘郡吏となる。
 
*第十三代成務天皇 大己貴命二十六代の裔、狭名大夫、此奥の郡吏となり、毛馬内町
古舘に居住し、吏長を置き地理を分つ、居ること二十七年、帝その勲功を賞で給い、豊
丘の名を改めて狭名の狭の一字にて狭郡と称号せしめ給う。
 
*第十四代仲哀天皇 二年狭名大夫、狭郡に卒す(錦木塚伝説政子姫の張本)
 
 第十六代仁徳天皇 五十五年、田道将軍、錦木村附近石野(伊寺水門)に戦死す。そ
の地に猿賀神社として祭祀せらる(猿賀野神社由来記参照)。
 「日本書紀」に、仁徳天皇五十五年蝦夷叛之遣シテ田道ヲ命シム撃タ則為ニ蝦夷ノ所
レテ敗以死伊寺水門云々とあり。この考証は「鹿角誌」所載の青山延寿稿「□褒崇軍田
道詞廟□」及び「田道将軍墳墓並詞廟考」に委曲を尽くしてある。
 
*第二十六代継体天皇 十七年(善記二年)三月二十八日(一一八三)宮川村小豆沢、
大日堂創建。十八年曙村三ケ田古四王神社創建。
 
*第二十七代安閑天皇 継体帝第五皇子、菟皇子東下し、宮川村五ノ宮嶽に登られる。
御供奉せる金丸兄弟、御家人、奈良、成田、安保、秋元の四人鹿角の祖となる。花輪の
四家とは是である。
 
*第三十二代崇峻天皇 敏達帝第五子瑞□皇子、蘇我馬子の為に皇子の列を除かれ、庶
人となり陸奥に配流せられ、豊丘に来りて宮居せらる。
 
*第三十三代推古天皇 七年七月十五日(一二五九)錦木村下古川にて鳥羽布織を教え
たる狭名大夫八代の裔政子姫の錦木塚伝説
 
*第四十三代元明天皇 和銅元年(一三六八)尾去沢の赤沢より銅を発見す。
 これは「続日本紀」の「和銅元年春正月乙巳武蔵国秩父郡献和銅云々」とあるものゝ
混じたものであろうか、尤も地方官が、この頃屡々交迭した史実に徴し、陸奥の記事が、
武蔵に混じたかも分からぬが、恐らくこれは前者であろう。「続日本紀」和銅元年の条
に「二月甲戌始置ク催鋳銭司」或は「三月従四位下上毛野朝臣小足為ル陸奥守ト」等と
見える。
 
 第五十七代陽成天皇 上津野の地名が見える。
 前掲第六節(F)項参照(三代実録)
 
*その後、神社仏閣の建立せられたものゝ重なるものを挙げると、
 
 醍醐天皇 昌泰三年、尾去沢村笹小屋の薬師庵
 
 村上天皇 天暦五年、安保陸奥守親平、錦木山観音寺再興。錦木山観音寺は、元来孝
徳天皇の大化元年、皇極天皇の勅願によって創立せられたものであるとの伝説がある(
「錦木山観音寺縁起」参照)
 
 清和天皇 貞観九年、安倍上野介、従五位侍従親仁、錦木山観音寺再興
 
 後一条天皇 治安三年、曙村松舘の郷士、天神社建立
 以下略す
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