五、最初の産金地へ(小田郡)考定の異説
 日本最初の産金地と考定する異説の、金華山と涌谷村説とは已に述べた。金華山説は
論ずるまでもなく、尤も可能性が希薄である。涌谷村説は、略定説とせられたものであ
ることは已に述べた。然るに茲に、尾去村説とする私の考証以外に、更に左の説がある。
それは「万葉集古義」十八巻上の頭註に見えるもので、次の通り。
 
 「享保三年戊戌、大阪小山屋平左衛門云、聖武天皇の時金出しゝは南部の内早池峰山
なり、此山に其時金掘し金のまぶ七所に有、はやちね大明神と云宮あり、一山悉く金な
り、人取ことならず、神甚をしみ給ふ故なりと云、小山雑談、金銀など皆石中にまじり
ある、其石をくだきえりて金銀をとる」と。
 
 この説は恐らく初伝の誤で、寧ろ尾去沢が、これに当たっていよう。成る程早池峰山
のある山脈一帯に金鉱の多少あるのは事実で、古くから採鉱の業にも従事し、現在も細
々ながら、事業継続中であるが、「金のまぶ七所あり」とか、「一山ことごとく金なり
」とかは誤伝である。如何に「甚をしみ給ふ」とも、人間共はだまって放っては置かな
い。勿論早池峰山は南部領には違いないが、南部の宝庫は尾去沢で、特別治外法権の特
権(御山法という)さえ与えておいた位である。だから、この大阪の小山平左衛門の説
は、寧ろ尾去沢の誤聞とした方が首肯される。因みに、早池峰山は岩手県稗貫郡内川目
村に在る。
 
 六、鹿角及び小田の古文献
 次の章に掲げる年表も、古文献と見て差し支えないが、こゝには伝説等も参酌して、
文献に当たって鹿角の古代史の一部を稽えて見る。この仕事は、尾去沢を最初の産金地
小田郡と考定する資料としたもので、奥地の鹿角がどれだけ古代史と交渉を持つかとい
う研究である。
 
(A)伝説に成務朝、狭名大夫が陸奥の郡吏となったのである(七章年表参照)。これ
は、錦木塚伝説の張本である『日本書紀』巻七(成務天皇)五年秋九月の条に「令諸国
以国郡立造長県邑置稲置云々」とある。
(B)白石の『五十四郡考』に「成務始分国郡以為国者八」とあるが、小田の地名は見
えない。又同書に「応神復置道奥・菊田・道口阿岐閉・神野等国、凡其為国十有一」とある
が、この頃もまた小田の地名が見えない。
(C)小田の地名の始めて見えるのは『延喜式』巻二十二民部上に、「陸奥。大管」と
あり、白河以下所管の三十五郡が挙げられ、小田という地名が含まれてある。但し遠田
という地名も併記せられてあるが、『皇学叢書』本の頭註にも見える如く、後世小田は
今の遠田郡となったものと見える。
(D)『和名類聚抄』及び『拾芥抄』にも、小田という地名は見える。
(E)『三代実録』元慶二年秋七月十日の条に、「秋田城下賊地者、上津野、火内、榲
淵、野代、河北、腋本、方口、大河、提、姉刀、方上、焼岡十二村也」とあるが、この
上津野は現在の鹿角の古名と推定せられ、一般考古学者の首肯する所であるが、私にも
一家言があるから、推定論であるが後段に略説することとしてこゝでは省く。又、火内
は比内或は檜内で、今の大館地方であろうか。又野代は現在の能代であろう。
(F)「節用集」所載には五十四郡とあり、鹿角の名も初めて見える。因みに「節用集
」は従来林宗二の撰(明応五年 − 足利時代)とされていたが、橋本学士の研究によれ
ば、建仁寺の僧の撰とするが真に近く、著作年代は不明ながら、室町中期の作らしいと
ある。
(G)「平家物語」巻二、阿古屋松の事の条に「また東に聞ゆる出羽陸奥の国も、昔は
六十六郡が一国になりしを、十二郡に割き分て後出羽国とは立てられたり云々」とある。
これに拠れば、出羽国は本来陸奥国から別れて十二郡として置かれた訳になる。「鹿角
誌」にはこれを評して、「雖是無稽之言。其説所由亦既久シ矣」とある。
(H)「方今版籍」所載(「鹿角誌」に拠る)陸奥国は凡て五十二郡とし、「延喜式」
所載の郡名中廃するもの五、その中小田郡も廃せられてある、但し「節用集」と同じく
鹿角は加えられてある。
 
 猶内藤十湾翁の「鹿角誌」巻三地理、秋田叢書収載の岡見知愛著「柞峯之嵐」、同伊
藤為憲著「鹿角縁起」などにも参照すべき記事があるが、省略することゝする。
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