05 鹿角二万石
 
 寛永十一年(1634)閏七月の『領内十郡郷村目録』(南部藩)に掲げられた郡名の表
現を見ると、他の九郡が北・二戸・三戸・九戸・岩手・紫波・閉伊・稗貫・和賀となっているの
に対し、鹿角のみが「狭布ケフ郡」と書き上げられている。
 元和・寛永の利直黒印知行状も殆ど鹿角郡を「京郡」と表現している。
 寛永十一年の一万四千石台から寛文五年には一万七千石台に増加している理由は、生
産技術の改善と云うより検地の出目デメによる増加と考えられる。出目とは、新検地によ
って出てきた従来の高より多い余分の石高を云う。
 貞享元年(1684)から一万九千石台、明治五年(1872)二万石を超え、いわゆる「鹿
角二万石」と云われる由縁である。
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