02a 茶道の歴史
 
〈抹茶の渡来〉
 平安時代末期になって平家が台頭しますと,当時宋ソウと称した中国との国交が,280年
振りに復活しました。それを記念していたのでしょうか,平清盛が中国育王山の仏照禅
師に,砂金を贈ったのに対し,その返礼として禅師から青磁の茶碗と,その墨跡ボクセキと
が送られて来ました。その茶碗は「馬蝗絆バコウハン」と称して,今に伝わっています。墨
跡の方は俗に「金カネ渡しの墨跡」として有名です。
 
△栄西禅師中国から茶の実を持ち帰る
 こうして中国との交通が再開されますと,僧侶等の入宋する者が増え,第一に入宋し
たのが栄西エイサイ禅師ゼンジでした。栄西は備中の人で,初め叡山に入って天台の顕密二教
を修め,葉上流という一派を立てました。仁安ニンアン三年と文治ブンチ三年の二回に亘って
入宋し,南宗の径山寺キンザンジの虚菴キアン禅師に師事し,臨済リンザイ宗の法脈を承けて,建
久ケンキュウ二年(1191)帰国し,九州平戸に着きますと肥前背振山セブリヤマ霊仙寺石上坊イワガ
ミボウの前苑に,中国から持ち帰った茶の実を播きました。このときの茶園の名残は,今
も残っています。栄西は,このように茶の実を携えて帰国しましたが,それよりも重要
なことは,臨済禅をわが国に伝えたことです。
 禅宗は六世紀頃中国において菩提達磨ダルマが創めたもので,わが国へは平安時代初期
に最澄が伝えましたが,その後中絶していたのを栄西が再び伝えたのです。
 栄西は建仁ケンニン二年(1202)源家二代将軍頼家の命により,京都に建仁寺を開き,ま
た頼朝の後室北条政子の招きに応じて,鎌倉に寿福寺を開き,その寺に移りました。栄
西は建仁寺を開くために京都に上京したとき,茶の実五つを柿の形をした陶器の入れて,
栂尾トガノオ高山寺コウザンジの明恵ミョウエ上人に贈りました。
 
△明恵上人茶の実を栂尾に播く
 明恵上人は,その実を栂尾トガノオに試植して成果を挙げたので,その茶を更に山城の宇
治に移植して,今日の宇治茶の隆盛の基を拓いたのです。宇治に移植された茶は,更に
各地に移植されたので,『異制庭訓往来』に,
 
 我朝名山者以栂尾為第一也 仁和寺、醍醐、宇治、葉室、般若寺、神尾寺、是為輔佐
 此外大和室尾、伊賀八島、伊勢八島、駿河清見、武蔵河越茶 皆是天下所皆言也
 
と書かれている程,茶園は全国に散在したのでした。
 
△本茶と非茶
 栂尾の茶は「本茶」と云い,その他の地において生産された茶を「非茶ヒチャ」と云って
区別しました。「本茶」は茶園の基モトを為すと云う意味であり,「非茶」は茶にあらず
ではなく,栂尾即ち本家の茶でない,と云う意味なのです。
 このようにわが国においても,至る所に茶園ができ,茶の生産も増えたのですが,そ
の頃中国においては,既に抹茶マッチャが用いられていました。
 
△抹茶
 抹茶は,茶の葉を茶臼で碾いて粉末にした茶なので碾茶ヒキチャとも云います。唐代の団
茶や,明代の煎茶と異なる点は,精選された茶の葉を,その煎じ汁を飲むだけではなく,
粉末にして全て飲用しますので,栄養的にも効果が多い。栄西は中国滞在中に,この抹
茶を飲むことや,その点て方タテカタなどを覚えたのです。
 
△『喫茶養生記キッサヨウジョウキ』
 栄西は,中国において常用していた抹茶の功徳を書き綴って『喫茶養生記』二巻を著
しました。栄西はその著書の中において,
 
 「人間の五臓は、それぞれその好むところの五味を多く摂取することによって強健と
 なる。肺は辛味シンミを好み、肝臓は酸味を欲し、脾臓は甘味、腎臓は鹹味カンミ、心臓は
 苦味を好む。ところが人は、辛、酸、甘、鹹の四味は好んで摂取するが、心臓に必要
 な苦味は嫌って摂らない。わが国人が心臓を患い、短命なのは、そのためである。よ
 ろしく大陸の人々に習って、茶の苦味を摂取して心臓を強健にしなければならない。
 これが延命長寿の妙術である」
 
と説いています。栄西が『喫茶養生記』を著した主旨は,喫茶を修法の功験クゲンの一方
法として用いるためでしたので,茶を飲むことが,次第に普及されるようになったので
す。
 また,この『喫茶養生記』には,抹茶の飲み方が書かれています。それに拠りますと,
匙サジによって二三匙分の抹茶を掬い取って茶碗に入れ,それに熱湯を注ぎ,茶筅チャセンに
よって掻き回して飲むとされています。
 その頃,鎌倉幕府は三代将軍実朝の時代でした。実朝は深酒が元で病に罹った際に,
栄西を召して加持祈祷を務めさせましたが,栄西は,加持祈祷よりもこれが良薬ですと,
抹茶と自著の『喫茶養生記』を献じました。抹茶を喫した実朝は,病が快方に赴いたの
を喜び,近臣の者にも抹茶を飲むことを奨めました。
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