0202茶道の歴史
 
〈鎌倉時代の喫茶〉
 
△明恵
 栄西から茶の実を贈られ,それを栂尾に植えた高山寺の明恵ミョウエ上人は,奈良仏教の
一派である華厳宗ケゴンシュウを復興した名僧として有名ですが,更に栄西に就いて禅と茶を
学んだのです。明恵は,
 
 「禅定ゼンジョウを修するに当たって三毒と云うものがある。一は睡魔、一は雑念、一は
 座相不正であり、この三毒を除かねば、身心を労し、年月を費やしても功は成り難い。
 特に睡魔は座禅修行に妨げがあり、それを除くには抹茶を喫するに如かず」
 
と主張しましたので,僧侶の間に行道の資として抹茶を飲むことが奨励され,抹茶の法
は禅宗だけでなく,華厳宗や律宗リッシュウの間においても広まりました。
 
△叡尊
 奈良西大寺を再興した叡尊エイソンは,弘長コウチョウ二年(1262)北条実時に招かれて鎌倉に
下りましたが,その途上,近江,美濃,尾張,駿河,相模の宿において民衆に請わるま
ま受戒を行い,集まった民衆に抹茶を与えています。これは不老長寿の薬として与えた
のでしょう。また,弘安コウアン四年(1281)蒙古襲来に当たって,勅命を奉じて愛染明王
に異国退散の祈願をしましたが,敵船覆滅の後,歳首の御修法を行い,満願の十六日に,
西大寺境内の鎮守八幡に参詣しましたが,折から白雪が降り頗ったので,これを吉兆と
看做ミナして,社頭において献茶を行い,その残りの茶を大きな器に点てて,集まった大
衆に施しました。これが西大寺の大茶盛式オオチャモリシキの起源であり,現在に至るまで毎年
四月十五,十六日の両日に催されています。
 
△道元
 このように,鎌倉時代の喫茶は,僧侶等によって始まった関係で,まず仏に茶を供え,
その残りを参列の僧侶なり,大衆が飲んだのです。そして,それが一つの儀式化とされ
るようになったのは,曹洞宗ソウトウシュウを伝えた道元ドウゲンからです。道元は栄西に師事
し,後宋に渡って修行しましたが,中国の名僧百丈ヒャクジョウ禅師の定めた『百丈清規シンキ
』に倣って,『永平エイヘイ清規シンキ』を選び,修道生活の日常行儀の一部として,喫茶,行
茶,大座茶湯ダイザサトウなどの茶礼を制定しました。これにより,ただ抹茶を飲むだけで
なく,飲むための作法のようなものが出来たのです。
 
〈南北朝時代の闘茶〉
 宋時代の中国においては,抹茶は飲むためのものでなくなり,闘茶トウチャと云う一種の
遊技になっていました。
 鎌倉時代初期から寺院の僧侶,禅宗に帰依していた武士等によって飲用されていた抹
茶は,鎌倉時代後期には,この闘茶の遊技が渡来し,忽ち流行しました。そして南北朝
から室町時代中期にかけて全盛期になりました。
 闘茶を行う場所は会所カイショと云って二階建てになっており,階下を客殿,階上を喫茶
亭キッチャノテイと称しました。喫茶亭は窓を開け放ち,四方の眺望を採り入れた板敷きの明る
い部屋です。床の間は無く,正面に屏風を立てて,三幅対の唐絵カラエを掛けます。唐絵は
釈迦像を中央とし,両側に観音や勢至の図を描いた仏画を配し,掛物の前には卓ショクを据
え,卓の上に三具足ミツグソクと称して花瓶,香炉,燭台を飾ります。三具足は全て唐物と
称する中国から渡来した道具です。室内の三隅には机キを並べ,点心テンシン,菓子,賭物カケ
モノなどを載せて置きます。点心は簡単な食事,菓子は後世の菓子とは異なり,珍しい果
物の類です。また賭物は闘茶の得点者に与える景品です。
 
△闘茶の仕来シキタリ
 喫茶亭の主人を亭主と云います。後世,茶会の主人役を亭主と称するのは,これから
始まったのです。客はまず階下の客殿において,食事の饗応を受け,食後庭に下りて,
庭園を逍遥します。そのために庭園の様式も,展望式のものから,京都銀閣寺の庭園の
ような廻遊式に変わりました。亭主は客が庭園を逍遥している間に,闘茶の準備をして,
客を喫茶亭に迎えます。客は豹ヒョウの皮を敷いた腰掛けに掛け,亭主は下座に設けられた
竹製の椅子に腰を掛けます。やがて給仕役の者が,茶碗を運び出し,まず正面の仏画の
前に供えます。この給仕役は,亭主の子供がする場合が多い。次に客の前に抹茶を入れ
た茶碗が配られ,給仕が熱湯を入れた瓶と茶筅を持ち出し,客が差し出す茶碗に湯を入
れ,茶筅で掻き混ぜます。客一同が第一回目の抹茶を飲み終わると,新しい茶碗が配ら
れ,茶が進められます。このようにして何種かの茶を飲み,その本非ホンピを当てるので
す。本非とは,栂尾において採れた本茶と,他の産地において採れた非茶のことです。
そして,その当てた得点によって賭物が与えられますが,そのためには,何回も茶を飲
まなければなりませんので,闘茶のことを,十服茶,五十服茶,百服茶などと称しまし
た。
 この闘茶は当時の武家,公家など上流社会において盛んに行われましたが,近江国の
守護大名佐佐木道誉が度々催したと云う闘茶会は,中でも頗る豪華なものであったこと
が『太平記』などに載せられています。
 
△闘茶の会においては − 唐物カラモノ
 闘茶の会においては唐物の茶器を用いるのが原則となっていました。唐物とは,中国
から渡来したものと云う意味です。道誉はその唐物茶器を多数所持していました。その
中においても九十九ツクモ茄子,京極文琳ブンリン,打曇ウチクモリ大海などの茶入は有名ですが,
これらの茶入は元,南支那産の薬味や香油などを入れる容器でしたが,茶器として採り
上げられたのです。その他茶室に掛ける唐絵カラエなども,仏画から次第に山水,花鳥など
に替わって来ました。このように唐絵や銅器の花入,香合によって飾られた座敷におい
て,唐物の茶器を用いて闘茶が行われたのです。
 
△闘茶が一般社会にも広まる
 このような闘茶の流行は,やがて一般社会にも,茶寄合チャヨリアイと称して波及したので,
天竜寺の夢窓国師は,その『夢中問答』に,
 
 近頃世間においては、けしからず茶をもてなさる
 
と記している程であり,また闘茶に掛物をすることによって,いろいろ弊害もありまし
たので,足利尊氏は建武ケンム三年(1336)に定めた『建武式目』の中において,「賭事を
目的とする遊びは、一切禁じる」と云う項目を加えた程です。
 しかし抹茶を飲むことは,わが国の茶の生産が増加するに従って,益々盛んになり,
一般庶民階級の間においても,簡単に飲まれるようになり,寺の門前において抹茶を客
に売る者,町角において一服一銭と呼び声を発てて,茶の立ち売りする者など,新しい
商売が生まれました。そして前者は後世固定した店を構えて,茶店となりました。しか
し,そうした処において飲ます抹茶は,勿論上茶ではありません。茶筅で泡を立てても,
その泡が直ぐ消えてしまいます。「その早きこと雲脚クモアシの如し」と云うところから,
そんな茶を雲脚ウンキャクと云いました。
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