0202a茶道の歴史
 
〈茶儀の制定〉
 
△書院の七所飾
 佐佐木道誉が康安コウアン元年十二月,南朝方の軍勢に攻められ,都から退くときに,自
邸の座敷に,茶道具一式を並べ,酒肴を整え,給仕人さえ留めて置いて,寄せ手の将士
が早速闘茶が出来るようにして置きました。と云うことですが,そのときの道具の飾り
方を,「書院の七所飾ナナショカザリ」と云って,茶の作法が制定される基本になったと云い
ます。
 しかし茶の作法の基本は,もっと古く,鎌倉時代の中頃に信州の小笠原貞宗が,道元
禅師から『百丈清規』の講義を受け,禅寺の日常茶飯の作法を基として,武家の礼法の
制定を試み,これが一応完成したのが,室町時代初期の北山時代でした。その礼法は武
家社会において,来客を送迎する際や,貴人の前に物を運ぶときの動作など,一々詳し
く規定されていました。これが小笠原礼法の起こりですが,武家中心に制定されたもの
ですから,禅宗の茶の作法とは大分違っていますが,武家の茶の作法も,この中に一応
は含まれていました。
 
△書院の台子飾
 室町時代中期六代将軍義教ヨシノリの頃,将軍家の同朋ドウホウに能阿弥ノウアミと云う芸術家が
出ました。同朋とは,将軍の文化方面の話し相手のために選ばれた芸能人のことです。
 能阿弥は「書院の七所飾」を参考にして,「書院の台子飾ダイスカザリ」を制定しました。
台子とは,茶道の手前テマエに用いる棚ですが,元来は禅寺の茶礼サレイに使用していた道具
で,南浦紹明ナンボショウメイが中国の径山寺キンザンジから持ち帰ったもので,筑前の崇福寺に
暫く置いてありましたが,京都の大徳寺に伝わり,足利尊氏のときにその命により,夢
窓国師が使用して茶を点てたと伝えられています。能阿弥は,元は禅寺のものである台
子を書院に飾り,武家の茶礼を行ったのです。
 
△東山御物
 能阿弥は義教の死後,引き続き八代将軍義政の同朋となりましたが,足利家に伝わる
唐物の美術品の中から,優秀な物を選び,「東山ヒガシヤマ御物ギョブツ」と名付けました。
博物館などにおいて展覧される物に「東山御物」の肩書きのあるものが,それです。
 
△茶の法式の制定
 能阿弥が制定した書院飾や台子飾の法式は,義政の時代になって一応完成したと考え
られます。そして,法式が制定されると同時に,茶器の扱い方,道具と道具とを飾り合
わせるときの曲尺割カネワリの寸法などが,自然に定められました。茶を点てる方式も,能
阿弥が小笠原流の礼法を参酌して,今日に伝えられているような茶の点て方を考案しま
した。また,点茶の際の所作,特に道具を運ぶときの歩き方などは,能の仕舞シマイの足取
りを採り入れています。点茶のときの服装も,闘茶などにおいては中国風の高僧のよう
な服装をしていましたが,特別の服装は定めず,俗人は裃カミシモ,僧は袈裟十徳ケサジットク,
貴人は素袍スホウと云うように,その職,地位による服装によって点茶をし,茶に招待され
ていました。
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