GLN(GREEN & LUCKY NET)からこんにちは
「鏡を覗く」考

 
[愛を感じるときに霊は生ずる]
 
 愛とは、慈しみ合う心のことで、慈しむとは、大切にすることである。
 
 一方広辞苑に拠れば、霊とは、
@肉体に宿り、または肉体を離れて存在すると考えられる精神的実体。たましい。たま。「霊魂・霊肉・幽霊・霊前」
Aはかり知ることのできない力のあること。目に見えない不思議な力のあること。また、その本体。「山霊・霊妙・霊験・霊薬」
B尊いこと。恩恵。「霊宝・霊雨」
とある。
 本稿においては、霊とは、主として@の意味について、述べたいと思う。
 
[詳細探訪]
 
 「自分の育てた草花は可愛い。しかし、余所の家で咲いている花は美しいが、可愛いとは思わない。」
 「自分の子供はいとおしい。しかし、他人の子供は愛くるしく思えるが、いとおしくはない。」
 
 即ち、われわれは、そのものを「可愛い」とか、「いとおしい」とかの感情を抱くようになると、そのものを「かけがえのない存在」であると感じるようになる。
 
 われわれは、余所の家とか、他人とか(以下「他のもの」と云う)は、自己の掌握する範疇から外れているから、「かけがえのない存在」とは思わない。
 もし、他のものを自己の管理下に置こうとすれば、当然に他のものを支配している人の承諾を得るか、又はその人との争いとなる。従って、余程のことがない限り、他のものを掌握してはいけないように、社会の道徳が築かれている。よって、他のものへの感情を抱くことはしないのである。
 
 私は、自己の掌握し得る範囲において、そこに「かけがえのない存在であると感じる」ことの究極の到達点は、「霊を感じる」ことであると想う。
 つまり、自分が「その物(普通は人のこと)」の存在を認め、その物が自分と同じような感覚を抱いており、更に自分の持っている優しさ以上の「優しさ」を持ち備えている、と思うような状態に立ち至ったとき、人はその物に「霊を感じる」のである。
 その物の存在を認めるとは、各々の存在が有機的に繋がっていると云うことである。
 
 このことは、多神教の次元、即ち「神=人」と云う想いが、人々に内在しているからである。人は、万物に霊を感じる可能性はあるのである。
 
 一神教の次元では、「霊を感じる」と云うことはありえない。万物(=人)は、人形使いたる神の操る糸によって、万物は行動している。万物のそれぞれの間においては、有機的な繋がりはあり得ない。つまり、各個々の繋がりを断ち切り、森羅万象の全てを神に委ねることによって、一神教が成立し構築されているからである。
 従って、個々の間に、霊を感じさせることはないのである。
 
 このことを補うために、「自分が愛されたいと思うなら、他をも愛せよ」と云う課題が与えられる。しかし、この課題は自発的に修することはないので、「霊を感じる」ことには決して至らない。ただただ、唯一神の霊を戴くのみである。
 
 わが日本の伝統的芸能である能や歌舞伎、いわゆる芝居の、その多くの演目の中においては、その根底をなすものは「霊の行方」にある。
 例えば、主人公が相手に愛を感じながら、その愛が成就されるのも、不条理故に悲しい結末を迎えるのも、「霊」の存在があって初めてその演目が成立するのである。
 
[詳細探訪]
 
 このように考えると、わが日本においては、その物を愛によって「かけがえのない存在」と認識したとき、究極において「霊を感じる」心理状態になることが分かる。
 
 その物に霊を感じてしまうと、もし、その霊が自分から離れて行ったり、失われてしまうと、自分が生きていることの意義がなくなる。
 このことの解決手段としては、挙げ句の果てには死を選ぶか、そのことを忘却=気を狂わさざるを得なくなるか、である。また、霊を弔うと云う、歴史的な習慣もある。
 
 このようなことの起こらないようにと、日本人は、相手を労り尊重すると云う「個人主義」を以て、社会生活が営まれているのである。
 
別掲「究極の個人主義とは」
 
 そうすると、愛とは、その物に霊を感じることである、と言い得る。
 
 即ち、人=愛、神=愛、神=人(自己)、「神=愛=人」の構図が描け得るのである。
H16.01.22
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