時処位に想う

停滞している時処位の例 H15.03.31

「或る人問う」
 停滞したり歪んだりしている時処位の事例とはどう云うものか。
 
「我は想う」
 停滞したり歪んだり、また無用な時処位として、まず考えられるのは次のような例を 挙げることが出来る。
 
一、憲法第九条に関する例
第九条「戦争の放棄・軍備および交戦権の否認」
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦 争と、武力による威嚇又は武力による行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久 にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するために、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交 戦権は、これを認めない。
 
①この規定は、われわれ日本人に適用されるが、諸外国には好都合な規定である。従っ て自主的な規定とは言い難い。今現在の国際状況の中では、この規定があるために、主 権国として認めてもらえない現状にあるように想われる。
②この規定は、現実のわが国の防衛体制とは実質的に矛盾していると想われる。
 
二、夫婦別姓に関する例
 そもそもこの問題を提起すること自体、無用である。住民基本台帳に自分の名前が登 録された今、議論するに値しないと想う。
 わが国では古来、贈り名・諡号・戒名・幼名・あだ名ニックネーム・芸名・筆名ペンネーム等々、自分 の名前を自由気ままに表してきている。
 
三、報道の自由・公正に関する例
 マスコミ関係者は、報道の自由や公正(と思われること)に関する、行政の圧力(つ まり法規制)には悉く反対する。
 しかし、報道は本当に自由・公正に行われ、正しく国民に伝わっているであろうか。
 出来事は日々ごまんとある。それを、少数の関係者の任意の意志により取捨選択し、 そのほんの一部を報道するだけである。
 報道に値するかどうかの判断を一手に引き受けていることの、責任の重さをどの程度 認識しているのであろうか。

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