時処位に想う

神社祭式に笑いはあるのか H15.03.31

「或る人問う」
 神社祭式に「笑い」がないのは何故か。
 
「我は想う」
 一般に神職は無愛想である。社頭講話でも、ユーモアはまずない、あっても「お世辞 を籠めたユーモア」である。神職研修でも、出来るだけユーモアを交えるように指導さ れるのであるが・・・・・・。
 
 神社祭式は、神前において粛々と執り行われる。この時神職 - 祭員は、誠を尽くし て奉仕しているので、笑うと云うことは考えられない。祭りにおいて、祭員始め参拝者 が神霊を戴くときは、限りなく張りつめた雰囲気が必要とされている。従って、殿内は 静寂そのものである。
 
 神職は、このような厳粛な機会を度々体験したり、また祭式に参列すると神前に最も 近い位置で奉仕する。そのため普段の生活においては、神職自身、何となく「真剣な風 貌」を保っていなければならないと、思うからであろう。氏子崇敬者もそれを期待して いるのかも知れない。
 
 祭式は厳粛に行われるため、その緊張を解くために直会ナオライが催される。直会では通 常、関係者一同が祭典の無事終了を祝って、酒食を戴く。神前に奉った神饌や神酒をお 下げして、神の食した物と同じ食べ物を戴くのである。このことによって、神と人とが 一体になると云う効用 - 恵みを感じることが出来る。
 祭式は厳粛で崇高な時処位、直会は、目的を無事達成した幸福感を味わう時処位と考 えることが出来る。
 
 さて、先刻神前に祝詞を厳かに申し上げた宮司が、この宴席でいきなりユーモアを交 えた挨拶は、なかなか口から出されないのではないだろうか。
 一方、祭り以外での講話は、そんなに厳粛な場面ではないのであるが、この時でも何 がしかの神事が行われるので、一気に人格を転換して、ユーモア人間に変身することは 、可成り難しいものと想う。
 
 ところで、祭式は無駄のない動作によって執行される。余分な動作は、時として見苦 しいとされるからである。間マとは合間のことであるが、祭式においては、必要最小限の 間は、必要とされる。祭式が連綿と止むことなく連続することよりも、ある一つ一つの 動作の終了時に、ぴっと静止する、即ち一時イットキの間を執ることことによって、祭式が 引き締まり、新鮮な場面を醸し出すからであろう。
 
 一方、笑いを誘うのは、無用な所作に繰り返したり、論理的に無関係なこと無駄なこ とを演ずることである。祭式の一切が終了すれば、境内や町内村内のここかしこで笑い の芸が演じられる。ここでも、演技者同士、また演技者と人々との間に、慶びの時処位 が形成されているのである。
 緊張と笑い、これがわが国古来からの、祭りにおける時処位の効用であると想う。

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