時処位に想う

宗教的世界観の違い H15.03.30

「或る人問う」
 宗教的世界観の違いによって、時処位に違いはあるのか。
 
「我は想う」
 駅伝において競い合う相手が存在しないと、それは「道中演技」となり、時処位が停 滞したり、歪んでしまうであろうと述べた。
 それは、わが国のように個々の存在意義を尊重する、と云う社会理念が醸成されてい るから、時処位が停滞するのである。
 
 ところが、造物主と被造物、と云う二つの対比を基本とする宗教的世界観においては 、前述の演奏会場の雰囲気で十分なのである。即ち演奏会場に居合わせて人々は全て、 同じ宗教的世界観を持ち合わせているからである。
 これらの事柄は、次のように整理される。
 
一、多神教の次元では、神の近くに居ようが遠くに居ようが、神の恵みには変わりはな い。そのためには個人による独占的な捧げ物よりも、時処位による整然とした奉仕の姿 - 連携プレー的な奉仕が望まれる。何故なら、神は万物を距てなく恵むからである。
 
二、一神教の次元では、個人が神に接近すれば、神と個人との結び付きは強くなるが、 個々人間の結び付きは希薄になる。集団に時処位が機能すれば、個々人間の連携が強く なるが、集団であるが故に神からは全て同一視され、一線が画されることとなる。何故 なら、神の恵みは、主に個人への救済や恵みを対象とするからである。そこにいる人々 は全て同一の宗教的世界観を持っているので、決して不満を抱いたり、違和感を感じな いのである。
 
 一神教の次元で醸成された時処位の定義を、わが国のいわゆる多神教的次元に、直接 的に導入したために混乱を生じ、そのために時処位は過去の遺物で、無用のものと批判 されるようになったものと想う。
 そのときは既に、時処位は停滞しているのである。

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