「或る人問う」 一神教的次元での時処位は、わが国には有り得ないのか。 「我は想う」 一神教の次元で醸成された時処位の定義を、わが国のいわゆる多神教的次元に、直接 的に導入したために混乱を生じ、そのために時処位は過去の遺物で、無用のものと批判 されるようになったものと想う。そのときは既に時処位は停滞しているのである、と述 べた。 実は、一神教的次元での時処位は、歴史的にも、わが国そのものの根本理念なのであ る。それは井戸端会議、各種講中、各集落(自治団体)、各会社、各種運動競技団体等 々、それら全ての集団は一神教的次元で管理され運営されて来ている。 自分の所属する集団は、その構成員は全て同じ世界観を持っている。自集団以外の人 とは絶対的に一線を画し、また自集団と他集団とは、絶対に融和することはない。つま り他集団を相容れないと云うことで、自集団の団結を保持しているのである。 構成員は、集団内で取り決めた目的を達成のための責任者として、集団の長を選び、 集団の長は、構成員全員の信頼の上に立脚し、一神教的な、絶対的な統率権限を有して いるのが一般的である。 若し力尽くで集団の長の地位を得たとしても、構成員の信頼を勝ち得なければ、その 長は何れは消え去って行くこととなる。 これらの集団内では、全ての事柄が「話し合い - 和」によって決定されるので、個 々人の意志は制限されることはない。若し自分が他の人の意見を無視すれば、何れは自 分の意見も無視されることになると考え、互いに相手の意見を尊重し合う、と云う共通 認識が醸成されてきているからである。全てが、話し合いの結果の尊重である。 因みに、若し同じ立場同士の一方が、納得する理由もなく相手を抹殺してしまうと、 相手は悪霊となって祟ると云う「怨霊信仰」は、現に存在している。 一神教の次元での集団の長は、絶対神=長と位置付けられ、集団内の全てを掌握する 権限を有する、とされる。 従って、このような集団での時処位は決して、わが国のような多神教的社会には、直 接的には採り入れられないのである。採り入れたとしても、そのままでは停滞したり、 歪んだ結果をもたらすので、何時のまにか「造り変えられる」か、消え去ってしまうか 、無視されてしまうのである。 参照 「神道と霊魂観(怨霊思想・御霊信仰ほか)」 参照 造り変える力と「神神の微笑」 |
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