GLN町井正路訳「ファウスト」

第十場 隣の家

 メフィストフェレス入り来る。
 
メフィスト  突然伺いまして誠に済みませんが、何卒御両人の御許しを願います、 (マーガレットを見て、恭しく二三歩下り) 私はマルタ、シウェルトライン夫人に御目に懸りたいのです。
 
マルタ  妾がマルタです、何方様(どなたさま)でいらっしゃいますか。
 
メフィスト  (マルタに向い低声で) 私は貴女に御会い申す事が出来ましてこれで満足です、御来客で御座るそうで、大層御 立派な方ですね、何卒唐突(だしぬけ)の御無礼は御許し下さい、午後に又御伺い致し ましょう。
 
マルタ  (声高に云う)おや、マーちゃん、おごって頂戴よ、この御方 が和娘(あなた)のことを貴婦人だと仰しゃいますよ。
 
マーガレット  妾は賎しい小娘ですわ、あら何うしましょう、紳士の御言葉が善(よ)過ぎます、 此宝石や装飾品は皆な妾のじゃないのよ。
 
メフィスト  いゝえ、宝石や装飾の事を申したのでは御座いません、真に気高い御容姿を拝しまし て、御暇するのを忘却致しました。
 
マルタ  何卒御用の趣きをお聞かせください。
 
メフィスト  善い御報(しら)せなら誠に結構で御座いますが、本当に御気の毒です、御聞きなさ れて御悔みなされるのを恐れます、貴女の夫はお亡なりになされましたよ、それで私が 遺言を御聞かせ申すのに推参致しました。
 
マルタ  えゝ、死にましたか、あの忠実な夫が、あゝ、妾も死にたい。
 
マーガレット  まあ奥様、そんなに御嘆き遊ばすな。
 
メフィスト  何卒、悲しい物語を御聞きください。
 
マーガレット  こんな事がありますから、妾は一生夫は持ちますまい、いとしい御方が亡くなれば、 死ぬる程悲しくなりますもの。
 
メフィスト  左様、薬は苦の種、苦は薬の種ですよ。
 
マルタ  何卒死際(しにぎわ)の事を話してください。
 
メフィスト  御主人はパドア市の聖アントニアスの側に葬られました、供養も十分に致しましたか ら、霊魂も地下に瞑して居られましょう。
 
マルタ  其外に御話はありませんか、遺言はありませんでしたか。
 
メフィスト  はい、申上ぐるのも誠につらいのですが、重大な御遺言を承って居ります、はい貴婦に 三百の供養をして貰って浮みたいと云うのです、然し御遺産とては一物も御座いません。
 
マルタ  旅人と云うものは、どんなに困っても、例えば乞食となり餓死するに至るとも、残る 者への紀念となるべき、一片の貨幣とか、宝石の一個位は、衣嚢(かくし)の底に残し てあるものですが、あの人はそれすら無かったのですか。
 
メフィスト  御夫人、甚だ御気の毒です、併し御主人は実際浪費されたのではないです、しかし御 自分の罪は深く後悔して居られました、取り分け身の悪運を果敢なんで居られたのです。
 
マーガレット  あゝ、人間は何故そんなに不幸なものでしょう、妾は御主人の為めに十分廻向を致し ましょう。

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