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自分には無用の長物たるこの古道具も、たゞ父が使用った許りに茲処にあるけれども、
自分は一度も手に触れた事はない、那(あ)の古い巻物なぞは、恐らくは此薄暗い燈火
が、此の汚い机の上を初めて照らした時から燻って居るのだろう、斯かる廃物賎貨の
荷物を重がって背負うて居るよりは、一層売却(たゝきう)って了った方がましだ、
祖先の遺物を所持せねばならぬと云う理由は無い、必要の節購えば足るのだ、欠乏と云う
奴は必ず自己の要求に適う品物を造り出すものだ、使用せぬ物を持て居る程馬鹿げた事は
無い。 けれど、其処の瓶のみは妙に自分の心を引き付ける、僕を引き付ける磁石の様だ、 こりゃ不思議、実に不思議だ、丁度暗夜深林の中で月光舟辺を照す様に不意に総てが 明るくなって来た。 貴き瓶、自分は崇敬の念を以て今汝を拿り下ろす、汝の中にある液体は、深奥な学問と 巧妙な技術で造られた強い強い麻酔薬だ、死の力を濃厚にした恐ろしい液体だ、あゝ 毒薬、早く汝の主人たる自分を救うて呉れ、自分は瓶を見て苦痛が和らぎ、瓶を持って 心の紊れが治まった、悩める精神(こころ)の潮流は、次第に汐(ひ)いて大海に誘い 込まれる様な心地がする、あゝ鏡の様な流は脚下に輝いて炒る、あゝ来世が対岸で手招き して居る。 迷の去った時、青空の燦爛たる有様を見ると、限なき喜悦を感じ、神の存在を認め、 希臘の神話に見る如き、翼を持った火神の車が降ってきて自分を乗せ、自由の世界に乗り 出し、新天地に連れて行ってくれる様な心地がする、あゝ虫にも劣る俺だもの、願うても 及ばぬ事だ、乍併断然として決心さえすれば、仮令極楽へは行けずとも、今よりは明るい 所に行けるに相違ない、そうだ、此の懐かしい世界を捨てゝ太陽に永久の別れを告げ、 世人の恐れ戦ぐ「死」の扇(扉?)を開鎖(あ)けよう、今こそ人間の尊厳が、必ずしも 神の御稜威に劣るものでないと云う事を行為に依て証明すべき時である、想像しても 苦痛を産み出す、焔々たる火焔に包まれて居るかの地獄の狭い入口に進み、物皆無に帰する 其の中へ憶(お)めず恐れず敢然として歩み近づくべき時であるのだ。 幾年の間忘れて居た此の水晶の盃、今こそ古い盃匣(はこ)から出て来てくれ、祖先の 宴会に光り輝いて、手から手に巡り廻って賓客を喜ばせたのはお前だ、盃に彫刻まれたる 巧妙な肖像は、詩に歌われ、波々と注がれた名酒は、唯一息に飲み乾されたのだ、 此盃を見るにつけ、昔しの楽しかった夜が偲ばれる、併し、俺は彫刻を称讃するとて盃を 出したのではない、又隣席の客に廻わすのでもない、この褐色の毒薬を盛る為めである、 どれ満腔の渇望を以て此の盃を傾けよう、明朝の復活祭の為に祝賀の爵盃を捧げよう。 彼毒薬を持った盃を挙げて唇に接(つ)く。 鐘に音響き合掌聞ゆ。 |
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