|
ファウスト
(独りで)実に不思議だよ、彼奴は益々屑を集め、貪欲の手を
延べて珍宝を模索し、偶々蚯蚓を掘り出して恐悦して居る、あんな頭に希望の消え去らんのは
実に不思議だ。 精霊に取巻かれて居る此の室で、こんな人間が気焔を吐くとは怪しからん、俳し憫むべき 奴ではあるが、今日は彼奴に謹んで感謝せねばならぬ、殆んど意識を失う許りの煩悶を、 死んで免れようとして居た自分を威圧して、失望の淵から救い上げて呉れたのは彼奴で あるのだから、あゝ、神霊の幻影は魔の如く偉大であるのに、俺は恰も矮人の如く小さな ものだと云う事が解った許りで、何の得る所もなかった。 自分では神自らの化身と思い、既に永久真理の鏡に近づいたものと信じ、蒼天の光明と 正常とに浴し、魔界の臭味を脱却せりと信じ、果は天使よりも偉大なりと考え、其の 自由の精神は空想の翼を拡げ、天地自然の脈管を過(よぎ)って流れ、茲処に神の生活を 創り、且つ之を楽んで居たが、今妄想の夢は醒めて、当然其の報酬が来たのだ、雷の如き 一喝は僕を九天より直下せしめた。 精霊よ、自分は再び敢て”爾(なんじ)”と肩を比べようとはせぬ、自分は爾を を呼び寄せる力を持て居ても、爾を留めて 置く力は持たぬ、あゝ、爾が出現したあの幸福な時、おの狂熱の燃えた時、俺は実際一個 の矮小な人間でありながら、神の御所時偉大なるものとなった様に感じた、然るに爾は 残酷にも人間の定めなき運命に自分を突き戻したのだ、噫、俺は何れの方向を避けて何れの 勢に従うたら好いだろう、吾等の功績や行為さえも、苦痛と同様に人生の行路を妨碍する とは実に心外の至りだ。 人間の心で、是こそ高尚で純潔な者と考えても、何等か異分子が必ず之に伴うて居る、 吾々が此の世の善なるものに達した時、其の最良のものすら詐欺妄想と云われて居る、吾々 に生命を与える神聖なる感情は、此の人寰(じんかん)の喧囂(けんごう)に麻痺して了 うのだ。 嘗ては空想が勇ましい翼に乗り、希望に充ち満ちて無限に乗り廻したが、「時」と云う旋風に 苦められ、今となっては僅かの空間に満足して居るより仕方がない、心配と云う奴は直ぐ 心の奥底を巣に構えて、漠然たる苦痛を孵化し、茲処に根底を固めると、総ての歓喜と 平和とを威嚇して了う、そうして日毎日毎に種々の姿に変るので、時に家となり屋敷となり、 又は妻や子となったり、時には水や火や、短剣や毒薬となって現われる、それだからまだ 現われて来ない事物に戦慄したり、まだ失わぬのに泣き悲しんで居るのだ。 あゝ、自分全く神の様なものでない、余り深く考え過ぎるのだ、自分は塵埃の中を 爬廻(はいまわ)って餌を漁る時、往来の人に踏潰されて了う虫螻(むしけら)の様な ものだ。 あゝ、僕を取り囲んで、この高い壁に着いてある幾百の棚にある書籍や道具は、 皆塵芥に過ぎぬ、廃物賎貨(がらくた)の裡に転がって居る自分は、蠹魚(しみ)の 世界に幽閉(とじこめ)られて居ると同様である、這般(こん)な室内で何の欠乏を 充たすことが出来よう、数千巻の書籍を読破して僅かに知り得た事は、到る処人は自ら 悩み自ら苦しんで、幸福なるものは殆どないと云う事実に過ぎない。 汝穴だらけの髑髏よ、其の苦笑は何の意味だ、貴様の脳も、嘗ては我等の脳の様に 煩悶して光明に憧れ、熱心に真理を追究した結果、たゞ曖昧の中に彷徨ふたに過ぎ なかったのだろう。 又汝等諸々の機械、お前達は車や歯輪や円筒や環などで、俺を嘲笑して居る様だが、 今堅い門の前に立って之を開ける事が出来ずに苦しんで居る俺を助ける事が能(でき) るか。お前達はいくら光明に出来て居ても、所詮門の閂を開ける事はできまい、白昼なお 仮面を取去られるのを嫌って居る不可思議に自然は、幾許梃(てこ)や転螺器(ねじまわし) で毀開(こじあけ)ようとしても出来るものでない。 |
| [次へ進んで下さい] | [バック] | [前画面へ戻る] |