GLN[ファウストのこと]

おわりに

・いわゆる教義教典の目的は、人をして教化し説得するための ものであろう。 したがって、教義教典には”真理(ある宗教で公に認められた真理のこと)” が記述されているので、人を納得させ、人を惹き付ける不思議な魅力がある、 と解されよう。
 
 ところで、”既存の教義教典”について、 「其処(大神の示す教義教典の内容)に、 何か齟齬をきたしている部分があるのではないだろうか。」と前述した。
 
 長い歴史を有する既存の宗教宗派の教義教典は、 特定されたある時期に、 特定されたある言語により、 特定されたある執筆者によって、 ”一気に”まとめられ、記述されて完成したものではないであろう。
 
 したがって、”教義教典”の中において、個々の章句(個別の教義教典)には それぞれ”真理”が記述されているが、教義教典の全体を通して見てみると、 一貫性がないと云うか、整合性がないと云うか、 人をして戸惑いを感じさせるものがあるようである。 つまり、その事により、いろいろな宗教や宗派を派生してきている。
 また、同一の宗教宗派であっても、その人の感じ方によって、 解釈が区々であったり、 当該教義教典の趣旨を間違って解釈したり、 またその教義教典の趣旨に沿えなかったり……。
 
 そのこと故に、結果として、 ほとんど全ての人は必然的と云うか、当然と云うか、 ”真理”を逸脱することがあるようである。
 その逸脱した行為が”罪”として問われ、 ひいては、その人(大方の人)は”許し”を請わなければならないこと になるのであろう。
 
 このことは、神(絶対神)にあらざるところの、 ”不完全人間”によって成された”教義教典”の限界と云うのであろうか、 宿命と云うのであろうか……。

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