※本稿は必要により、また随時に書き改められるべきものです。
文責:SYSOP(ウェブマスター) 以上ご覧のように、町井正路訳「ファウスト」全文を転記させていただきました。 いかがでしたでしょうか……。 ここで、この”町井正路訳「ファウスト」”の読後の感想について、自分なりに、 気のついたことを、任意に、想いつくまま、書き留めてみたいと思います。 ・いわゆる「汎神論」とは、大神(造物主、また唯一絶対神)と、諸物との間に、 小神が存在すると認識することであろうと思われる。小神とは、精霊(霊の類)とか、 ”ファウスト”のように秀でたと自認?される人とかなど、超能力を行使出来そうな ”もの(神のような力を有していると考えられるもの)”を云うのであろう。 ・大神の支配下では、敢えて本人が逆らわない限り、死後も大神の”救済”を 受けられる。つまり、この場合はキリスト教徒とされてしまう。 このことは、現に我が日本でも、そのような風潮にある。例えば、乃木希典大人 の場合、ご本人の意思(子孫断絶のことの遺言)に関わらず、「乃木家存続」 のことが画策されたと云われている。 と云うことは、人は本人の意思や言動に関わらず、生前であっても、死後であっても、 その人の置かれている環境(世界)での、大方是認されている思想宗教の ”考え方(道理)”によって、絶対的に支配される運命にあるのであろう。 付言すれば、「汎神論」と云う概念も、それは大神の許で考え出された説であり、 もし、その環境に大神が存在しないと認識される場合には、汎神論説は成立しない と思われるのだが……。 ・大神の支配下では(日本仏教下でも同じ)、人が善行すれば勿論であるが、 どんな悪行をした場合であっても、いわゆる臨終に至れば”許される”と される。 しかしながら、我が日本における神道の根本理念は、いわゆる”祓え”によって、 日々心身の清浄がなされているので、その生存の過程において、もし非道徳的な 言動があったと気がついたら、即座に自らその誤りを反省し修正することとなる。 このことは、大神の支配下におけるところでの、大神の許しを請うのとは、 基本的に異なるものである。 何故ここで、善行悪行のことに拘泥するかと云うと……、 その人の生前の言動が、大方良好な功績があったと認められれば、仮令多少の 非道徳的な言動 − マーガレットの悲劇とか、老夫婦への対処方法とか − があったとしても、それは見逃され得ると云うか、本人自らが無反省のまま生き続ける こととなるからである。 人自らが即座に反省しないと云うことは、現行の、好ましからざる道徳律は 改善されて行かないことになろう。 ・”ある説(また定説とも)”を分析究明しようとすればするほど、 この”ある説”に対抗としようとする気運になり、その”ある説”の指向する 趣旨(教義教典の意義)から段々乖離した”新説”が生じ発展して 行くことになろう。 また、大神(又はある説)の支配下において、 「自分は大神の支配を是認する者である」と公言していれば、 その趣旨に抵触しようとする言動 − 例えば、「大神(大神の教義教典)から自由になりたい」 − があっても、 それは許されるものなのであろうか。 とすれば、大神の存在意義は”大気”のようなもの、 即ち拘束力のないもの(存在意義を有しないもの)となっしまうであろう。 |
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