私の神道「死後観」

霊と祀りと……

「或る人問う」
 ところで死後間もない人の霊は、すぐ近くを浮遊していると考えられている らしい、「自分は、何処へ行けばいいのか」「黄泉の国はどこなのか」と……。
 
「我は想う」
 そこで、墓前祭などのとき、遺された私共(祭主)は、逝った人が迷わないように、 その行き先、即ち、
@亡骸(遺骨)は、先祖が居られる所=墓地に葬らせていただき、
A霊は、当家の祖霊神として「霊代(みたましろ)」に遷っていただくように、 申し伝えることになっている。
 
「或る人問う」
 また、浮遊している霊と云うか、怨霊と云うか、幽霊と云うか、亡霊と云うか、 これらの善後策について、 鎮魂と云うか、供養と云うか、そのような行為をするのは、 私共生きているヒトの考え方如何に委ねられている。即ち、
@「逝った人の自意識 − 希望」は全く無視され、
A「逝った人はそのように思っているだろう、そのように望んでいるだろう、 きっと悦んでくれているだろう……」、と。
 
「我は想う」
 逝った人にも、「夢を見る(=希望を持つ)」権利があるのでは?!♪#……。
 
「或る人問う」
 えっ!
 死後の夢、それはもしかしたら、「霊」なのかも知れない。
 
 逝った人の見るの夢 = 霊……か。
 
「我は想う」
 「人の噂も七十五日」。私共は普通、自分のことでも、他人のことでも、
@善行のことは、よく思い出し、思い起こされるが、
A悪行(らしいことも)のことは、忘れ去られると云うか、 記憶の中の片隅にに追いやられてしまうようだ。
 
「或る人問う」
 遺してきた子弟達が、
 もし逝った人が、
@生前に悔い、思い残してきたことがあったが故に、 (自分の霊が)怨霊と云うか、亡霊と云うか、になって、 子弟達の周囲に出没し、彷徨していたとしたら、 子弟達は随時に、また必要により「鎮魂の儀」をして上げるであろう。
A大往生であったとしても、(子弟達の)記憶が薄れ、消え果てるまで、 その霊を祀る( = 随時に、また必要により)こととなろう。
 
「我は想う」
 一方、逝った人は、
@生前の行いが、人より劣ったようなので……
A遺してきた子弟達のことが気になるので……
Bもっともっと教義教典の奥義を深めたいので……。
 霊(=死後の夢)となって、
@天国極楽へ行って安楽に暮らすより、この近くに居て精励努力し、
Aもって、子弟達のことを見守りたいものだ……。
 
 このように考えること、即ち、
@逝った人の霊( = 弛まない成長志向)
A遺された子弟達による祀り( = 更新されてゆく思想哲学)
Bこの二者が合体と云うか、融和することによる相乗効果を期待(=醸成される成果)
と云うところの、三元論的思考が構築され得よう。
 
 このことが即ち、森羅万象(ヒトも)の進歩発展と云うか、天壌無窮の真理と云うか、 そのように考えられよう。

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