私の神道「死後観」

「祀り」ことについて

「或る人問う」
 「祀り」とは、普通的には供養のことで、 神道では、神々(先祖先人の霊も含まれる)に謝恩の誠を尽くすことである。
 
 神恩とは、思想哲学として捉えることが出来る。
 何故なら、神による恩 = 思想哲学(=宗教)の如何によって、 私共の価値観や人生観が左右されるからである。
 
 さて、森羅万象は停滞することなく更新を繰り返し、 天壌無窮のように永遠に、存在し続いている、と認識されている。
 したがって、神恩たる思想哲学も、絶えず更新し続け、 何時でも生き生きとしていることになろう。
 
「我は想う」
 ここで、「祀り(の形態)」に関して付言すれば、
@社会集団の中での「祀り」として考えると、 儀式的と云うか、定型的と云うか、 いわゆる「形」を重んじる傾向になることもあろうが、
しかし、
A私共の置かれている環境、つまり「時処位」は、時々刻々と変遷しているし、 また独りのときとか、刹那的の場に遭遇することもあろう。
 
「或る人問う」
 そのようなときは「形」よりも、「心意気(心の中での祀り)」 に委ねられることになるのだろうか。
 
「我は想う」
 そのときの心は勿論、「祓い」によって清められつつ、純真であることになろう。

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