△誰のための哲学か
「或る人問う」
欧米諸国で説かれる思想・哲学は、キリスト教徒のためのものか。異教徒には適用
されないものなのか。
「我は想う」
前述したように、説教する先生は優秀な頭脳もって生まれたが故に、独りよがり
になったり、特権意識を持ってしまう傾向にある。先生自らが、社会の先駆者とし
て一石を投じたいと云う意識が先になり、傲慢にみえるようになるのであろう。
「或る人問う」
先生は優秀な人物であるからこそ、素晴らしい仮説を生み出すことが出来、人民
をして幸福で生きがいのある生活へと導いてくれるのである思うが………
先生(仮説の構築者など)は、知識階級に属し、知識階級は歴史的には一部の少
数者であった。その仮説によって幸を得る大多数は、下層に生活する農民(農山漁
民や労働者などのこと、以下同じ)である。したがって、仮説の良し悪しを判定す
る人民は、農民と云うことになる。
先生は、自らが「好し」とする仮説を、キリスト教の神の名の下に「おしなべ
て」農民に説き伏せることがあったたのではないかと思われることもあるが………
つまり、この仮説を具現すると云うことは、キリスト教徒の義務であると………
「我は想う」
そのようなこともあったかも知れない。
「或る人問う」
思想哲学の先駆者と自認するフランスにおいて、(平成17年頃)イスラム青年に
よる暴動が起きたのは何故か。
フランスの思想哲学は、実はキリスト教徒(キリスト教を理解する人も含む)だ
けを対象としたものであったのではないのか………
「我は想う」
もしそうであれば、心配されることである。
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