21 本居宣長
 
                       参考:堀書店発行「神道辞典」ほか
 
〈本居宣長モトオリノリナガ〉(享保一五〜享和元・1730〜1801)
 江戸後期の国学者、歌人である。
 伊勢松阪に生まれ、小津三四右衛門定利の長男、母は勝子。幼名富之助、後弥四郎・栄
貞、二十六歳のとき宣長と改名し、字は春庵。
 父は木綿問屋を営む。父の死後家業衰え、母の意志で、二十三歳の春京都に遊学し、
武川幸順に師事して医学を、また堀景山には儒学を学ぶ。契沖の学問に親しんで『百人
一首改観抄』を読み、次第に古典研究に入った。契沖からの影響下のものとして、三十
四・五歳までの源氏物語を中心とする王朝文学の研究が挙げられる。遊学中に『排蘆小船
アシワケヲブネ』を著す。
 宝暦七年(1757)七月、京より帰って松阪で小児科医を開業し、傍ら賀茂真淵の著書
により古典研究に励む。真淵の影響は、古事記・万葉集等の上代文学の研究に現れる。こ
の間源氏物語・伊勢物語・万葉集等を講読した。
 同十三年五月二十五日松阪新上屋で真淵に対面、古事記研究の志を語る。この年、『
紫文要領』『石上私淑言イソノカミササメゴト』『手枕』等成る。
 後天明六年(五十七歳)古事記神代巻の伝成り、寛政四年十二月二十日中巻、同十年
六月十三日下巻が成り、茲に『古事記伝』が完成した。この間各種の研究が成り門人も
増した。
 同十二年七月七十一歳のとき遺言状を書き、諡号をも秋津彦美津桜根大人と定めた。
享和元年九月二十九日没、七十二歳。
 
 宣長の業績の中心は、『古事記伝』の完成にある。本書の形は注釈であるが、その中
には宣長の思想・学説などをも含み、儒仏を排して古道に帰るべきを説いた。
 また語学者としても優れており、『詞の玉緒』は手爾乎波の研究書、『御国詞活用抄
』は活用の研究書として注目される。古道論としては『古事記伝』は勿論『直毘霊
ナホビノミタマ』があり、歌論書としては『石上私淑言』『あしわけ小船』がある。また文学
論としての『もののあわれ論』の如きは、現在においても確説とすべきものである。要
するに、宣長の到達したところは、現在においても古典研究の出発点としなければなら
ないもので、宣長学の価値も其処にある。
 著書は全て本居宣長全集に収められているが、主なものには前記の他、『源氏物語玉
の小櫛』『万葉集玉の小琴』『出雲国造神寿後釈』『大祓後釈』『古訓古事記』『続紀
歴朝詔詞解』等の注釈書、『てにをは紐鏡』『漢字三音考』『玉あられ』等の語学書、
また古道論としては『国号考』『玉鉾百首』『玉くしげ』『神代正語』『鈴屋答問録』
『玉勝間』『うひ山ぶみ』『馭戎慨言ギョジュウガイケゲン』などがある。
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