29a 哲学のすすめ[人間の有限性の自覚]
 
〈人間的立場とは何か〉
 
△人間に対する自身
 人間は、人間以上のものを持たなくなりました。人間は自らの立場からものを見るの
です。人間は自己自身に対して絶対の自信を持つようになりました。
 
△歴史の皮肉
 その結果、人間が価値の基準を見失ったことは、大きな歴史の皮肉であると思います。
 人間が人間以上の絶対的なものの存在を認めなくなると、価値の基準は人間自身にな
ります。基本的人権と云う思想など、近世になってから、人間自身の持つ価値が重んぜ
られてきました。
 人間自身の考えが絶対であると考えますと、人によって考え方が異なるので、世界観
も異なることになります。この相異なる世界観のどれが良いかを決定すべき基準は存し
ません。
 人間が科学的認識を絶対視し、人間はその科学的認識によって一切を解決することが
出来るとしますと、人間自身も科学的認識の対象となります。そうすると、人間は何ら
価値を持つものとは考えられなくなります。何故なら人間を科学的に考察する限り、他
の自然物や動物とは本質的に異なるものではないからです。
 また人間の理性の働きも、科学的見地からは何も特別の意義を有するものではありま
せん。理性は、動物である人間を環境に適応させる働きをする道具なのです。
 このように人間が自らに自身を持ち、人間以上のものを否定するとき、其処に価値の
基準は全く見失われるのです。
 
△科学の本質
 人間は、自然現象を超越した絶対的なものを認識する能力がない、と自覚することに
よって、自然現象をあるがままの姿に捉えようとする自然科学が成立しました。人間が
自分の認識能力が有限的なものであると云うことを知ることによって、自然科学が成立
したのです。
 
△人間は自然の支配者ではない
 自然科学の発展により、素晴らしい技術文明を打ち立てることが出来ました。そして
ある程度まで自然現象を人間の意のままにすることが出来るようになりました。それは、
人間が自然自身の持つ力を利用し、自然自身のうちに存する法則を利用しているに過ぎ
ません。我々は自然に対して勝手にある力を持たせ、思い通りに働かせることが出来る
のではありません。また、我々は勝手に自然法則を創り出すことも出来ません。
 従って例えば、実験室の中で、蛋白質から極めて単純な生命を創り出すことが出来る
と考えますと、もう人間は生命そのものを創り出し得、生命の持つ神秘は科学的に解明
されるであろうと考えるでしょう。
 この考え方は、人間自身が生命を創り出したことになるでしょうか。人間の発見した
ことは、蛋白質に一定の条件を与えれば、生命が発生すると云うことに過ぎません。換
言すれば、人間は生命が発生する条件を見出したに過ぎません。生命を創り出してのは、
あくまでも自然の持っている力なのです。
 
△かけがえのない人間の生命
 自らの自由によって行為の決断を行う人間の生命は、永久に絶対の神秘です。総ての
人間は、絶対に他の人間に代えることの出来ない生命を持っています。
 一人ひとりの、このかけがえのない生命の持つ神秘さに触れるとき、我々は、人間の
生命に絶対的な価値を見出すのです。
 
△形而上学と科学
 科学的知識が、人間の認識能力の有限性を自覚することによって成立した、と云うこ
とを反省し、見失われた価値の基準を再び見出せると私は思います。
 形而上学的世界観は人間の有限性を真に自覚していませんでした。人間が経験を越え
たものを認識することが出来る、と考えていたからです。人間の認識能力は無限の力を
持ち、宇宙の大きな生命とか神を認識し得ると考えられていたのです。
 科学は経験によって示される現象の姿を探求することで満足し、それ以上のことを問
題としません。もとより経験を越えたものが存するかどうか、我々には判りません。我
々は経験を越えたものが存在しないと断定する権利はありません。経験を越えたものは
人間の認識にとっては知り得ないものであるが故に、科学はそれを問題としないのです。
 科学は人間の認識能力の有限性の自覚の上に成立したものでありながら、著しい成功
を得たため、我々はともすればその有限性を忘れてしまうのです。人下は世界全体の支
配者であるように考え、生命をも創り出せると考えました。そして科学は人間の生命も
また人間の支配し得るものと考え、その結果人間はその価値を失いました。
 人間のこの傲慢さは、科学の本質の誤解から生じます。科学の本質を本当に理解し、
我々は真に謙虚になるべきです。形而上学的世界観よりもっと謙虚な立場を執るべきで
しょう。我々は一人ひとりの人間の持つ生命のかけがえなさを実感し、其処に価値の拠
りどころを見出せるでしょう。
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