28 哲学のすすめ[哲学は学問性を持ち得るか]
 
                       参考:講談社発行「哲学のすすめ」
 
〈学問性とは何か〉
 
△哲学に学問性を与える道はあるか
 我々は、価値判断を相対的と考えるソフィストの態度は否定的です。我々はあくまで
も、哲学に学問性を与える道を見出そうとしたソクラテスの態度に賛成したい。
 しかし、歴史上の多くの哲学者たちは、何とかして哲学に学問性を与えようとして努
力してきました。にも拘わらず哲学者たちの意見は千差万別で、一致していません。
 
△学問性とは事実の問題ではない
 学問とは客観性を要求するものであり、学問的知識は単にある特定の人に対して妥当
するものではなく、総ての人に対して妥当するものでなければなりません。
 しかし学問的知識が、事実上の総ての人によって承認されている、と云うことを意味
していません。
 「2+3=5」は算数の公式で、殆どの全て人は納得しています。しかし、乳幼児は知っ
ているでしょうか。或いはこの公式を理解出来ない人(例えば未開人)がいるかも知れ
ません。更に「地球は丸い」と云うことについてはどうでしょうか。我々が幾ら「地球
は丸い」と、いろいろな理由を挙げて説明しても、その説明をどうしても受け付けない
で「地球は平たい」と云う人々(例えば未開人)が存在していたらどうでしょうか。
 と云うことは、学問的知識の客観性は、事実上の総ての人が承認することではありま
せん。しかしこの公式(理論)は、たとえそれを認めない人々がいたとしても、客観的
な知識なのです。
 
△十分な根拠
 学問の客観性は、総ての人が承認すべき根拠を持っています。その人が正しく判断す
れば、どうしても認めなければならないような、十分な根拠を持っている主張が、学問
的な、客観的な主張です。「2+3=5」も、「地球は丸い」のも、十分な根拠があるから
こそ、如何なる人でも認めなければならないのです。
 
△哲学の客観性を否定する理由はない
 学問の客観性が前述のとおりとしますと、哲学は千差万別です。しかしそれだけで、
哲学の客観性を否定出来るでしょうか。
 客観性とは、総ての人が承認すると云う事実の問題ではありません。たとえ多くの人
が反対しても、ある判断が十分な根拠を持っていれば、その判断は客観性を持つのです。
 哲学の場合でも、たとえ専門家の間の意見が一致しないからと云って、それ故に哲学
の客観性は有り得ないと断定する理由は少しもないと思います。
 
〈思惟の展開〉
 
△哲学の客観性の根拠は
 哲学が千差万別であるがために、哲学の客観性は否定されませんので、哲学の客観性
を積極的に主張する必要もありません。哲学には客観性の基礎となる根拠がないのでし
ょうか。私は、自然科学と哲学において、本質的な相違はないと考えます。
 
△自然科学の理論
 自然科学の場合、ある判断が真であるかどうかは、事実に照らし合わせて決定します。
自然現象を正しく捉えている判断は真であり、誤って捉えている判断は偽とします。こ
のため自然科学では経験的な事実を確かめるため、実験をします。人文科学や社会学、
そして哲学は、実験を行うことは殆ど不可能です。特に哲学の場合は、経験的な事実を
探求しようとして、実験をすることは本質的な成り立ちません。
 しかし自然科学の場合でも、其処においてなされる全ての判断が、事実と照らし合わ
せて確かめられるでしょうか。
 
△事実によって確かめられないもの
 例えば「火星には生物がいる」と云う判断は、その真偽は現在は決定的ではありませ
んが、人間が火星に到達する日がくれば、その事実が確かめられるでしょう。
 しかし、抽象的な理論的な判断は、必ずしも事実によって確かめられません。例えば
「電子が存在する」との判断は、電子を直接見ることは出来ないので、事実によって確
証することは不可能です。そのため、我々はいろいろの現象を説明するためには、「電
子が存在する」と考えなければならない、と推論するのです。
 一般に自然科学における理論は、事実によって確証されるものではなく、自然現象を
説明するために考えられた仮説です。それ故、自然科学が発展するにつれて、順次古い
理論は捨てられて行きます。古い仮説の持つ欠点を見出し、その欠点を補うことの出来
る新しい仮説を打ち立てることによって、自然科学は発展して行くのです。
 
△哲学的思惟の展開
 このように考えますと、自然科学の場合でも、判断の真理性とか客観性は、必ずしも
事実によって確証されるものではなく、古い仮説の持つ限界を自覚することによって新
しい仮説を打ち立てて行く、と云う思惟の発展の過程によって次第に獲得されることに
なります。自然科学の判断は、絶対の確実性を持つものではなく、人間の思惟の発展を
通じて、次第により客観的なものへと進展して行くのです。
 哲学の客観性も、人間の哲学的思惟の展開によって得られると考えられます。我々は
哲学の古い理論の欠点を知ることによって、その欠点を補うべき新しい理論が立てられ、
この過程を繰り返して行くことによって、次第に客観性を持つ理論に近づいて行くこと
が出来るのです。
 
〈哲学は時代とともに変化する〉
 
△個人における哲学の発展
 哲学、即ち人生観とか世界観は、我々の生涯の間に次第に変化して行きます。通常、
子供の頃に持っていた哲学は、青年になり、壮年になり、更に老年になって行くに従っ
て、その人の哲学もまた何らかの形で変わって行きます。
 この変化は、我々は以前に持っていた古い哲学の欠陥を自覚することによって、新し
い哲学を持つようになるためです。年をとるに従って次第により正しい哲学を持つと云
うことは、若いときの考えはどうも思慮が足りなかった、との述懐がなされるのです。
古い哲学を自覚し、その欠陥を克服して新しい哲学へと移って行くことは、自分の哲学
の客観性を根拠付けているのです。
 
△人間全体における哲学の発展
 個人の哲学の発展は、人間全体の哲学の発展にも当てはまります。
 思想家は普通、他人の思想とは全く無関係に、単に自分だけで思索しません。過去や
今現在の時代の思想を知り、その基礎の上に立って思索するのです。その思想とは、今
までの思想の持つ欠陥を自覚し、その欠陥を克服する思想を考え出すのです。そのこと
によって思想は発展し、その発展によって思想は次第に客観性を得てくるのです。
 
△個人の場合と人間全体の場合
 個人の場合、次第に客観性を持った思想に進まずに、誤った思惟ををし、誤った方向
に迷い込むこともあります。
 個々の思想家も誤った思惟をする場合があります。しかし人間全体の思想史の中では、
このような誤った思想はその意義を持たないで消え去って行くものと考えられます。思
想史の中で意義を持つ思想とは、多くの人々によってその意義が認められ、多くの人々
に何らかの影響を与えた思想です。此処に人々による審判が行われ、この審判に合格し
た思想のみが思想史の上に伝えられているいるのです。
 人間全体では、思惟の誤りの行われる可能性は少なく、思想は次第により正しい、よ
り客観的なものになって行くのです。
 
△哲学の発展とその客観性
 哲学の始まったと云われるギリシャの昔から、哲学は、同じ問題を繰り返して論じ、
見るべき進歩はないと思われがちです。しかしその根底に存する根本的な考え方は、歴
史とともに著しく変化し、発展しています。このことは事実として、我々が常識的に持
っている哲学が歴史的に見て大きく変化していることは前述のとおりです。付言します
と、プラトンやアリストテレスの時代には、この大哲学者たちは奴隷制には何の疑問も
抱いていませんでした。

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