27 哲学のすすめ[科学の基礎にも哲学がある]
 
                       参考:講談社発行「哲学のすすめ」
 
〈価値からの自由〉
 
△哲学は相対的か
 これまで、私は正しい哲学を持つことを薦めてきました。
 しかし正しい哲学と誤った哲学を、我々はどのようにして区別出来るのでしょうか。
哲学は価値判断で、事実についての判断ではありませんので、正しいか誤っているかを
判定するはっきりした標準があるのでしょうか。もし区別出来ないとすれば、哲学は人
によって異なる相対的にものとなります。
 
△哲学を科学から排除する
 哲学が相対的なものであると、学問的意味を持たないことになります。それ故、現代
の人文科学者や社会科学者の多くは、哲学が科学のうちに混入することによって、純粋
に客観的たるべき科学が、主観的色彩を持ってくる、と云うことを恐れて、科学と哲学
とを厳密に区別しようとします。価値判断は科学では行われるべきではない、科学にお
いては我々は純粋に事実を事実として捉えるべきだ、と云うのです。マックス=ウェーバ
ー(1864〜1920)は、この意味において社会科学は「価値からの自由」と云う態度を執
らなければならない、と強調しました。
 
△哲学のない科学は可能か
 人文科学や社会科学が、本当に価値判断なくして成立するでしょうか。
 もとより我々は科学や学問において、主観的な偏見を持って考えてはなりません。マ
ックス=ウェーバーは、科学において我々は思考する研究者として発言すべきであって、
実践する人間として発言すべきではない、と言いましたが、「価値からの自由」が単に
このことであるなら、それは当然のことでしょう。しかし、問題は、事実についての認
識は果たして価値判断から無関係に行われるかどうか、にあります。事実についての認
識は、本質的に価値判断と結び付いているものと私は思っています。
 
△事実の選択
 過去においても現在においても、「事実」は無数に存在します。人文科学や社会科学
において、この無数の事実を全てそのまま捉えることは不可能です。ですから、事実の
選択が行われます。我々は多くの事実の中から、幾つかの事実を選び出して、それを学
問的研究の対象とするのです。我々はどのような基準でこの事実の選択をするのでしょ
うか。
 選択の対象となる事実は、当然に学問的研究にとって重要であるかどうか、と云うこ
とです。我々はつまらない事実、どうでもよい事実を捨て、重要な事実のみを選び出し
ます。しかし「重要である」と判断することは、一つの価値判断なのです。そうします
と、事実判断もその根底において価値判断と結び付いている訳です。
 
〈歴史学の場合〉
 
△歴史学は事実の学
 歴史学はもとより過去の歴史を研究するものですから、純粋に事実についての学問で
あるべきです。それは直接には価値判断と関係しません。
 通常歴史家も、ときには過去或いは現在の歴史的出来事について、特に歴史上の人物
の思想とか行為とかについて、批判することもあるでしょうし、この意味で価値判断を
行うでしょうが、このような価値判断を下すことが、歴史学の任務でないことは云うま
でもありません。
 歴史家の任務は、過去の歴史をそのあるがままに捉えることにあります。過去の歴史
は、現在の我々とは関係なく、既に生起したものですから、事実として客観的に存在し
ており、歴史家は主観的偏見を去って、事実が如何にあったかを究明するものです。
 従って歴史家は、歴史家自身の世界観とか哲学とは無関係であるべきです。ところが
実際には、必ずしもそのようにはなりません。
 
△事実の確定
 歴史家が過去の歴史を研究するに当たって、まず第一に行わなければならないのは、
歴史の事実を確定することです。歴史的事実を正確に捉えることなしに、如何なる歴史
叙述も成立しません。もしも誤った歴史的事実を基礎にして歴史叙述を行いますと、そ
れは何の学問的意義も持たないことになります。そしてこの歴史的事実の確定の段階に
おいて、歴史家自身の世界観とか哲学はそれ程大きな役割を果たさないでしょう。寧ろ
世界観とか哲学の影響を与えるてはならないのです。事実の確定は純粋に客観的に行わ
れるべきです。
 歴史的事実は、現に我々自身の目に見えませんから、事実の確定の段階において、詳
しく検討すれば、いろいろの問題が生じます。
 歴史的事実を確定するためには、我々は通常記録に頼ります。過去の歴史家の書いた
記録とか、歴史的事実の起こった時代の人の書いた記録などの類です。しかしそれらの
記録は果たして絶対に信頼し得るものかどうかは、必ずしも明らかではありません。記
録を聞いた人が故意に偽りの記述をしたり、その人の主観的解釈が入り込んだりするこ
とがあります。この場合、どの記録をどれだけ信頼するかと云うとき、歴史家自身の主
観的な価値判断がなされないとは断言出来ないのです。
 しかし一般的には、歴史的事実の確定に関しては、価値判断とは無関係であるとされ
ています。
 
△歴史の因果的説明
 歴史的事実の確定が歴史学においてどんなに重要な意義を持っても、それだけが歴史
学の仕事ではありません。
 歴史学は更に進んで、歴史的出来事の間の因果的な連関を明らかにしなければなりま
せん。何が原因でこの歴史的出来事が起こったのか、そしてまたその歴史的出来事がど
のような結果を及ぼしたのか、と云うことを探求して、歴史についての因果的な説明を
与える必要があります。
 歴史的事実を確定し、その事実を年代的に並べた後、歴史の因果的説明をして初めて
歴史的叙述が成り立つのです。
 
△歴史家の現代的関心
 歴史的事実の間の因果的連関の説明に際しては、どうしても歴史家の価値判断が入る
と思います。つまりその事実は選択されて採用されますので、その選択が後の歴史に対
して、何が本質的に重要な意義を持っているか、と云う観点から行われることになりま
す。即ち、我々は歴史のうちに多くの因果関係があり、その中から重要なものを取り出
し、その重要な因果関係の連鎖によって歴史全体を説明するのです。
 どの因果関係が重要な意義を持つか、と云う判断は、勿論一つの価値判断です。そし
てその価値判断は、歴史家が現代と云う時代をどのように考えるか、現代の本質が何処
にあると考えるか、などによって異なります。
 歴史の見方は、歴史家の現代に対する見方や、歴史家自身の関心によって規定されて
います。
 
△歴史は常に書き替えられる
 「歴史は常に書き替えられる」とは、前掲の事情によると思います。歴史家の価値判
断が異なるに応じて、歴史は常に新しく書き替えられます。この価値判断は歴史家自身
の持っている世界観・哲学によります。
 例えば太平洋戦争の歴史的意義や、惹いては明治維新の意義も異なって解釈されるこ
とになります。
 
△歴史学と哲学
 このように実証的学問たるべき歴史学は、哲学を離れては成立しません。もし哲学を
取り去れば、歴史はただ事実の年代的記録に過ぎなくなり、真の意味での歴史叙述では
なくなります。
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