26a 哲学のすすめ[哲学は現実に対して力を持つか]
 
〈「歴史の必然性」と人間の行為〉
 
△「歴史の必然性」を仮定しても
 もしも「歴史の必然性」が存すると仮定しますと、我々の世界観とか哲学とかは不要
になります。反対に、歴史を貫いている法則を捉えることが重要なのでしょうか。
 このことについて少し考えて見ましょう。
 
△厳密な「歴史の必然性」
 厳密な「歴史の必然性」を考えることは、論理的に不可能ではありません。この場合
は、世界観とか哲学は、歴史の動きに対して何の力も持たず、何の影響を与えることは
出来ません。それはまた、歴史を支配し決定して行く法則を捉えること自体、何の意味
も持たなくなります。何故なら、我々がその法則を捉えようと否とに関わらず、歴史の
出来事の過程が法則によって決定されているからです。
 そうしますと、我々は歴史を支配している法則を捉えて、それに従った行為をする必
要がなくなります。我々は寧ろ自分の良いと信ずる哲学に従って行為した方が良いこと
となります。
 
△巨視的な「歴史の必然性」
 それ故、歴史を支配している法則を知ることが意味を持つとすれば、歴史の必然性を
もう少し緩やかな意味に解さなければなりません。即ち、歴史の過程は法則によって必
然的に決定されているけれども、それはある一つの出来事の後にどのような出来事が生
ずるかと云うことまで、法則的に決定されるのではなく、個々の出来事の生起は人間の
力で多少は変え得るのであり、ただ歴史を巨視的に見ると、其処には人間の手でどうし
ようもない必然的な法則があって、それによって歴史は動かされて行くのだ、と云う意
味に解する訳です。つまり歴史の目先の動きは、人間がそれを変えることは出来ても、
歴史の本質的な動きは法則によって決定されていると考えるのです。
 「歴史の必然性」をこのように多少緩やかな意味にとりますと、その場合には、歴史
を支配する法則を知ることは我々の行為に対して無意味ではなくなります。我々はこの
法則を知ることのよって、歴史の動きを理解し、この方向に従って行為をすることによ
って、歴史の動きを早めることが出来るからです。我々が総て力を合わせ、この歴史の
必然的方向を妨げる行為をすれば、歴史の歩みは遅くなってしまいます。何故なら、目
先の出来事の生起は、人間の力によって変えられる、と云うのがこの考え方であったか
らです。
 しかしこのようになりますと、今度は別の問題が生じます。それは即ち、どうして我
々は歴史の歩みを早めなければならないのか、と云う問題です。もしも歴史が法則によ
って必然的に悪い方向に向かって動いて行くように決まっているとしたならば、どうで
しょうか。その場合でも我々は矢張り、歴史の法則に適合した行為をして、歴史の歩み
を早めるべきなのでしょうか。悪い将来が早く来るように努力すべきなのでしょうか。
我々が歴史の歩みを遅くするように努力すべきであることは、云うまでもありません。
 そうであるとするなら、この場合にも、我々にとって最も必要なことは、歴史の法則
を知ることではありません。何が良いものであり、何が悪いものであるかを判断するこ
とです。即ち哲学を持つことです。我々は歴史の法則に適合するように行為すべきでは
なく、良いと信ずる世界観に従って行為すべきなのです。
 
△人間の行為をも含んだ「歴史の必然性」
 「歴史の必然性」には、以上の二つの見方のほかに、もう一つの見方があります。そ
れは「歴史の必然性」とは人間の行為をも含むものである、と云う見方です。即ち、人
間の行為は歴史の動きを変えることが出来るが、人間の大多数が一定の行為をすること
が歴史の法則によって決まっているので、この人間の行為によって歴史が一定の方向に
動いて行くことが必然的なのだ、と云う見方です。
 そうしますと、我々はこの歴史の法則に適合する行為を選ばなければならず、其れは
本末転倒で、自己の哲学は無意味となります。
 我々は自己の哲学によって良いと信ずる行為をし、その結果歴史が一つの方向に動い
て行くとすれば、その方向がどうであっても、人間の行為を含めた「歴史の必然性」は、
後から考えられるに過ぎないのです。
 
〈現実を導くもの〉
 
△歴史の重み
 現実の歴史は重く、それは過去の歴史の積み重ねの上に成立しているからです。例え
ば、歴史のうちに深い根を持っている伝統的なものは、たとえそれが非合理的なものと
考えられるものであっても、直ちに否定することは出来ません。我々は伝統が現実に強
く生きていると云う事実を認識して、その上に立って行為をしなければなりません。現
実の持つ歴史的重みを無視しますと、その世界観がどのようなものであっても、空想的
性格のものになってしまうでしょう。
 
△現実を導く力
 歴史の法則を考え、その法則に適う行為をするような態度は、現実によって引き回さ
れていることになります。我々は現実をよく掴み、現実の重みを凝視する必要がありま
す。しかし根本においては、現実を如何なる方向に導いて行くべきかと云う理念を持つ
べきであると思います。その理念を与えるものが、世界観・哲学なのです。

[次へ進む] [バック]