26 哲学のすすめ[哲学は現実に対して力を持つか]
 
                       参考:講談社発行「哲学のすすめ」
 
〈「歴史の必然性」と云う考え方〉
 
△哲学は主観的意味しか持ち得ないか
 哲学は我々の個人生活の根底に存するものであると同時に、また我々の政治的、社会
的見解の基礎でもあるので、社会的に意味を持っています。
 しかし歴史の動向を全体的に眺めると、其処には人間の手でどうすることも出来ない
法則が支配していて、この法則によって現実は規定されて行くのではないでしょうか。
となれば、哲学は我々にとっては主観的な意味を持つとしても、大きく現実を動かして
行くような意味は持っていないことになります。従って我々が現実に対処して行くため
には、哲学よりは、現実を支配している法則を捉え、その法則に従った生き方・行為を
する方が良い、と云うことになります。
 
△歴史を支配する法則
 現代の実証主義的立場の人には、歴史の過程は法則的に必然的に決定される、と考え
る人もおります。一切の現象(自然現象も、社会現象も、人間の意志の働きなども)は、
法則によって決定される、と言います。実証主義者の多くは、ただ法則があると云うだ
けで、どのような法則であるかは具体的に主張していません。
 
〈「科学的」な考え方〉
 
△「歴史の必然性」と云う考えはどうして生ずるのか
 自然科学が自然現象を支配する法則を見出すことによって、初めて確実な「科学」と
なることが出来ました。この自然科学の成功に刺激されて、自然現象だけではなく、歴
史現象のうちにも、それを支配する法則を見出すことが出来るに違いない、と考えたか
らです。換言しますと、法則を見出すことが「科学」の仕事であるなら、歴史のうちに
に存する法則をも見出すことが出来なければ、我々は歴史についての「科学的」認識を
行っていないことになるのだ、と考えられてきました。
 つまり、現代の実証主義者は、法則を見出すことによって、「科学的」たり得ると考
えたのです。
 
△自然現象の過程は必然的に決定されているか
 しかし、この考え方は本当に「科学的」なのでしょうか。
 それでは、自然科学の捉えた自然法則とは、一体どのような性質のものでしょうか。
例えば、落体の法則を考えて見ましょう。落体の法則は自然現象を支配しています。ど
んな物でも、それが真空中を落下する限り、「落下の距離は時間の自乗に正比例する」
のです。我々はこの法則そのものを、人間の力で変える訳にはいきません。
 しかし、だからといって、この法則は、自然現象の過程を人間の力で変えられないと
云うことを意味するものではありません。
 例えば高所から球を落とせば、球は落体の法則によって落下します。しかし球を落と
すかどうかは、法則の関知するところではありません。落ちて行く球は、落ちて行く途
中でそれを受け止めると、球は地面まで落ちません。球は、地面まで落ちようと、途中
で邪魔されても、落体の法則はちゃんと成立しているのです。球技などのスポーツの醍
醐味は、落体の法則に挑むことにあります。
 自然法則と云われるものの大部分は、このような性質のものです。例えばボイル=シャ
ルルの法則もこの種の法則です。気体の体積と、圧力と温度との関係を述べたこの法則
は、無論常に成立しています。しかし、この法則は自然現象の過程が必然的に決定され
ていることを意味しません。我々は人為的に、室内の温度を暖めて空気の体積を増すこ
とも出来れば、反対に温度を下げて空気の体積を減ずることも出来るのです。
 
△自然法則の誤解
 もとよりケプラーの法則による遊星の運行は、人間の手で変えることは出来ません。
しかし前掲の落体の法則などは、自然現象の過程の必然性を意味しません。
 従って我々が常識的に、自然現象の過程は自然法則によって必然的に決定されている
と思いがちなのは、自然現象に対する大きな誤解によるものです。遊星の運行などの天
体現象が自然法則によって支配され、必然的な過程を辿って行く、と云うことから、直
ちに自然現象全体の過程が、自然法則によって必然的に規定されていると速断してしま
ったことに起因すると思います。これは自然法則の性格の誤解に基づくものです。
 デカルト(1596〜1650)やカントなどの大哲学者もこの誤りに陥りました。
 
△自然科学の実験と技術文明
 それでは、何故誤ったのでしょうか。
 第一は、自然科学が自然法則を発見し得たのは、「何に因ってであるか」です。それ
は実験です。実験を行うことによって、自然科学は実証的な学問となり、法則を発見出
来ました。しかし実験とは、自然現象を人為的に一定の条件の許に置くことによっての
み可能なのです。例えば、落体の法則を厳密に実験しようとすれば、真空と云う条件を
作り出す必要があります。もしも自然現象の過程を人為的に変えることが出来ないとす
れば、我々は自然現象が一定の条件を実現するまで待っていなければならず、実験は殆
ど不可能です。そうであれば、自然科学によって法則が発見されること自身が、自然現
象の過程が法則によって必然的に決定されているものではないことを示している訳です。
 第二は、自然科学の発展の結果、技術文明が著しく進歩したと云う事実です。この事
実は、自然科学が発達すれば、それだけ我々は自然現象の過程を人間の望むように変え
て行くことが出来るようになる、と云うことを示しています。技術文明とは、正に自然
現象の過程を人為的に変える術の発展です。自然法則を利用して、自然現象を人間の思
うままに変えることが出来るのです。此処にも自然科学そのものによって、自然現象の
過程の必然性など存しないことが示されています。
 
△歴史の必然性と云う考えは「科学的」か
 これまで、自然科学の見出した自然法則の性格を誤解することによって生じてきた「
非科学的」考え方について述べました。
 自然科学の過程でも、其処に人間が介入するときは、変えられるのです。まして歴史
には、常に人間の働きが入っています。人間の働きの含まれない歴史は考えられません。
そうであるからこそ、歴史の過程が人間の働きによって変えられる、と云うことは当然
であると思います。少なくとも、歴史の過程を必然的に決定する法則があると云う考え
は、しっかりした根拠を持っていないことは確実であると思います。
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