25 哲学のすすめ[哲学は社会的意義を持つか]
 
                       参考:講談社発行「哲学のすすめ」
 
〈個人生活と社会生活〉
 
△哲学は個人生活の原理に過ぎない
 哲学は、我々の個人生活の基礎にあって、個人生活と深く結び付いているかも知れま
せんが、それでも哲学は、社会的意義を持たないのではないか、と云う疑問があります。
 哲学は個人の問題であり、社会の問題とは別物ではないか、社会を良くして行くため
に必要なのは哲学ではなく、寧ろ政治的な、或いは社会的な見識ではないだろうか、と
も考えられます。
 我々はこの問題について考えてみましょう。
 
△余りにも非現実的な考え
 この疑問には、「哲学が個々人の生活の根底にあるとすれば、正しい哲学を持つこと
が個々の人間を良くして行くことであり、また個々の人間が良くなれば、社会全体も良
くなるのだから、正しい哲学を持つことは結局社会を良くして行く、と云うことに関係
することになるのではないか」とも答えることが出来ます。
 しかしこの考えは、余りにも先の長い現実離れした考えのようです。総ての人の心を
良くすると云うことが、果たして何時になったら実現出来るでしょうか。
 個々の人間を良くして行くと云う努力も、もとより絶対に必要ですが、それよりもも
っと重要なのは、人々がたとえ悪い事をしようとしても、それを実行することの出来な
い社会制度を創ることである、と思います。
 そのためには政治的な見解の根底にも、哲学が存していると思います。
 
〈政治的見解の相違〉
 
△政治は事実と関係する
 云うまでもなく、政治的問題は純粋に哲学の問題ではありません。我々は単に、哲学
によって政治的問題を割り切ることは出来ません。例えば、もし金利の引き下げ、或い
は国債の発行の問題について、哲学的に見て良いとか悪いとかの判断を下したならば、
笑い者になります。この判断を下すためには、我々は経済的な機構についての知識、金
利の引き下げが経済界に及ぼす影響、国債が果たして消化出来るか、などについての正
しい見通しを持たなければなりません。それ故、政治的問題は殆ど哲学とは関係ないよ
うに思われるでしょう。
 
△政治は価値判断を含む
 しかし、政治は元々常に価値判断を含んでいます。ある政策を行うことが良いか悪い
かは、価値判断なくしては政治として成り立ちません。現実の状況が良いかどうか、と
云う判断(事実)を基礎にして、ここでどういう政策を採ることが最善であるかを決め
るところに、初めて政治は成り立ちます。為政者はもとより、政治に預かる人は必ず価
値判断を行っているのです。このように政治が常に価値判断を含むとするなら、政治は
哲学と無関係でないことになります。
 
△政治が哲学と無関係に見える理由
 政治が一見哲学と無関係に見えるのは、それが具体的に事物についての価値判断であ
るからです。具体的な事物についての価値判断においては、事実についての知識が大き
な役割を演ずることは前述しました。しかしこのとき、政策の持つ原理的な価値判断に
ついて論じないで、恰も事実についての知識のみで価値判断をしているからです。実際
は、政治的判断の根底には何時も哲学が存しているのです。
 
△政治的意見の相違する原因
 例えば国債発行の是非と云う政治的意見の違いは、単に事実についての意見の相違か
ら生じるのではなく、もっと深い、世界観・哲学の相違に根ざしている、と思います。
例えばイスラエル紛争に関する政策について、その紛争の事実的な知識を同じように持
つ二人に、その政策を論じてもらうと、親キリスト教圏的立場を採る人の政治的意見と、
親イスラム教圏的立場を採る人の政治的意見は分かれます。
 この相違は、どういう生活を良いと考えるか、どういう社会を価値ありと考えるか、
と云う考えの相違がその根底に存するからです。
 
△哲学が事実判断にも影響を与える
 世界観・哲学の相違は、事実についての判断にまで影響を与えます。
 前掲の例で、親キリスト教圏的立場を採る人はキリスト教圏に有利な政策を支持し、
親イスラム教圏的立場を採る人はイスラム教圏に有利な政策を支持します。つまり我々
は、自分の哲学によって、各々の良い面だけを取り出して、それによって、キリスト教
圏はこう云う国体クニガラだ、イスラム教圏はこう云う国体だ、と云う事実判断を下すから
です。「あばたもえくぼ」と云う訳なのです。
 
〈哲学が社会生活を規定する〉
 
△民主主義と国家主義
 もし以上のように言えるとするならば、哲学は社会的意義を持たないどころか、寧ろ
政治的、社会的見解は、根本的に哲学と結び付いているのです。従って我々は良い社会
を創って行くためには、正しい哲学を持つことが最も重要なことです。
 国家主義を採ること、或いは民主主義を採ることは、国家とか国民についての事実に
ついての知識からは得られません。国家を優先して重んずるか、国民を優先して重んず
るかの価値判断に因ります。
 
△「哲人政治論」
 ギリシャの哲学者プラトン(紀元前427〜347)はその著『国家』の中で、有名な「哲
人政治論」を唱えました。「政治家は哲学者でなければならない、或いは哲学者が政治
を執るべきだ」と言うのです。哲学者は政権欲などを持たないので、政治を行うことを
嫌がりますが、そのような哲学者が交替に政治を行うことになって、初めて立派な政治
が行われる、と言います。
 このプラトンの説は観念過ぎますが、政治家がしっかりした高遠な哲学を持つと云う
ことは、非常に大切なことであると思います。
 
〈多数決原理には内容がない〉
 
△一人ひとりが主権者/社会を良くする道
 我々の一人ひとりは、皆主権者です。政治の体制は原則として多数決で決まります。
それ故、我々はよく自覚した一票を投じなければなりません。
 この点で私は、社会を良くして行くためには、一人ひとりの人間が良くなることが必
要であると思います。その道は先の遠い話ですが、我々は一人ひとりが世界観・哲学に
深い関心を持つべきです。
 
△多数決の原理は無内容である
 元来、多数決とは何ら内容的な意味を持っていません。しかし、多数決の原理は、民
主主義社会においては絶対に否定することの出来ない重要な原理です。
 しかし、例えばこの多数決は、罪の無いの人を、ただその人を好かないと云う理由で
有罪にすることは、理論的には十分考え得ることです。
 
△多数決の原理を活かすもの
 多数決による決定が必ずしも常に良い決定であると云えないことは前述しましたが、
多数決を否定することは出来ません。多数決の原理は、それだけでは民主主義を成立せ
しめる形式的な原理に過ぎません。我々が真によりよい民主主義を実現して行こうとす
るならば、この形式的な原理に立派な内容を与えて行くことが必要です。即ち、多数決
の原理によって、常に良い決定がなされるようにして行くことです。
 国民の一人ひとりの持っている世界観・哲学によって、多数決の結果が左右されます。
そうであれば、我々一人ひとりが立派な世界観を持つ必要があります。我々は自分の持
っている哲学を見直しつつ、よりよいと信ずる哲学を求めて行かなければなりません。
哲学は我々の社会生活をもその根底において規定しているので、我々がどのような哲学
を持つかによって、社会は変わって行くのです。

[次へ進む] [バック]