21a 哲学のすすめ[だれでも哲学を持っている]
 
△哲学と他の学問との相違
 哲学は人間の存するところ必ずあります。人間が生きて行く限り、哲学は自ずから生
じてきます。この点に哲学と他の学問との相違があると思います。
 他の学問は、人間の知識がある程度まで進んだ後に、対象の持ついろいろな性質に不
思議を感じ、どうしてそういう性質が存するのかと云うことを探求するときに生まれて
きます。つまり、哲学以外の他の諸科学は、我々がある一つの対象を研究しようと考え
るようになってから、生じてくるのです。それ故、その対象の名前が学問の名前となり、
我々は名前を聞いただけで、大体その学問が何をするものかを理解することが出来ます。
 ところが哲学はそうではありません。「それは何かの対象についての学問」ではあり
ません。それは、「人間が生きて行く以上、必ず生じてきてしまう学問」なのです。こ
こに哲学が極めて曖昧な名前を持つと云うことの理由が存するのです。
 哲学は「驚き」から生ずる、とよく云われますが、しかし私は、哲学は人間が「驚き
」を感ずるようになる前から存在していると思います。哲学は「驚き」にではなく、も
っと深く「生きる」と云うことに根ざしているのです。「生きる」ための必要上、哲学
はどうしても生じてこなければならないのです。
 
〈哲学を呼吸する〉
 
△現代人は、昔なら皆大哲学者
 我々が現在無自覚的に持っている哲学は、確かに常識から得られたものが大部分です。
それは決して専門的な哲学の著作を読んで、其処から得られたものではありません。し
かし問題は、それでは、我々の常識は何処から生じてきたのでしょうか。
 それは、我々の生きている今の時代に常識として考えられる哲学があり、我々は生ま
れてから、いわばこの「時代の哲学」を知らず知らずに呼吸して行くうちに、自然に生
じてくるものと思います。そしてこの「時代の哲学」は、過去の多くの思想家たちが考
え、それが現在の常識として通用するようになっているのです。つまり、我々が現在常
識として持っている哲学は、過去の哲学者達の思索の結晶なのです。
 ですから現代の我々は、どんな人でも、少し昔に生きていたとすれば、優れた哲学者
なのではないでしょうか。
 
△基本的人権と云う考え方
 現在我々は、全ての人は平等に基本的人権を持っている、と云うことを常識として疑
いません。しかしこういう考え方が出てきたのは近世の西洋で、然もそれがはっきり承
認されるようになったのは18世紀の末です。アメリカの独立宣言(1776)、及びフラン
ス革命の人権宣言(1789)が、基本的人権を宣言した最初のものです。
 従ってもし現代の我々が、昔に生まれて基本的人権を主張したとすれば、それは歴史
に残る程の思想家になったのです。
 
△歴史の見方
 現在、我々の歴史が、神の摂理によって定められているとは、通常は考えません。我
々は、歴史的出来事を考える場合、その出来事は何か過去の原因があったから生じたの
であると考え、神がその出来事を生ぜしめるように仕組んだのだ、とは考えないでしょ
う。しかし19世紀の初めの大哲学者ヘーゲルは、歴史の過程は神の摂理によって定めら
れていると考えていました。それ故、もし我々が18世紀にでも生きていて、現代の常識
的な哲学を説いていたら、非常に革命的な思想を持った哲学者であった訳です。
 
△常識は変化する
 こう考えますと、常識は時代によって変化して行きます。このような常識の変化は、
決していわゆる専門的な哲学と無関係に行われるのではなく、それを媒介して行われる
のです。
 優れた思想家は、その時代において、常に何らかの意味で常識を越えた思想を述べま
す。もしも思想家が単にその時代の常識的な考え方を述べているだけなら、その思想家
は決して時代的意義を持つことは出来ないでしょう。何故なら、そのような思想家は新
しい時代を創って行くことが出来ないからです。しかし優れた思想家の常識を越えた思
想は、やがて多くの人々の思想に染み込んで行き、次の時代の常識となって行くのです。
常識はこうした仕方で変化して行くのです。
 我々が常識的な哲学を反省し、少しでもよりよく生きようとするならば、其処に自ず
から哲学的関心が生ずるのです。全ての人間の生活の根底に、無自覚的にせよ、必ず哲
学が存しているならば、その哲学について反省し、正しい生き方を考えると云うことが、
重要であると思います。

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