151 神皇正統記 天(その一)
 
                                 北畠親房 著
 
 大日本オホヤマトは神国カミノクニ也。天祖アマツミオヤはじめて基モトイをひらき、日神ヒノカミながく統トウ
を伝ツタヘ給ふ。我国のみ此事あり。異朝イテウには其たぐひなし。此故に神国といふなり。
 神代には豊葦原トヨアシハラノ千五百チイホノ秋アキノ瑞穂ミヅホノ国クニといふ。天地開闢の初ハジメより
此名コノナあり。天祖アマツミオヤ国常立尊クニノトコタチノミコト、陽神ヲガミ陰神メガミにさづけ給し勅ミコトノリ
にきこえたり。天照大神アマテラスオホミカミ、天孫アメミマの尊に譲ユヅリましまししにも、此名あれ
ば根本コンポンの号ナなりとはしりぬべし。
 
 又は大八洲オホヤシマノ国といふ。是は陽神陰神、此国を生ウミ給しが、八ヤツの島なりしによ
って名ナヅけられたり。
 又は耶麻土ヤマトといふ。是は大八洲の中国ナカツクニの名なり。第八にあたるたび、天アメノ
御虚空ミソラ豊秋津根別トヨアキヅネワケといふ神を生給ふ。これを大日本オホヤマト豊秋津洲トヨアキヅシマ
となづく。今は四十八ケ国にわかてり。中州ナカツクニたりし上に、神武天皇東征トウセイより代
々の皇都クワウト也。よりて其名をとりて、余ホカの七州をもすべて耶麻土といふなるべし。
唐モロコシにも、周シウの国より出イデたりしかば、天下を周といふ。漢カンの地よりをこりたれ
ば、海内カイダイを漢と名づけしがごし。
 
 耶麻土と云へることは山迹ヤマアトといふなり。昔天地アメツチわかれて泥デイのうるほひいま
だかはかず、山をのみ往来ワウライとして其跡おほかりければ山迹といふ。或アルイハ古語に居
住を止トといふ。山に居住せしによりて山止ヤマトなりともいへり。
 大日本とも大倭とも書くことは、此国に漢字伝ツタハリて後、国の名をかくに字を大日本
と定てしかも耶麻土とよませたるなり。大日靈(靈の巫の代わりに女。以下「靈」と記
す)オホヒルメのしろしめす御国なれば、其義をもとれるか、はた日のいづる所にちかければ
しかいへるか。義はかゝれども字のまゝ日のもととはよまず。耶麻土と訓クンぜり。我国
の漢字を訓ずることおほく如此カクノゴトシ。をのづから日の本モトなどいへるは文字モンジによ
れるなり。国の名とせるにあらず。
 
 裏書に云。日のもととよめる哥、万葉に云。
  いざこどもはや日のもとへおほとものみつの浜松まちこひぬらん
 
 又古イニシヘより大日本とも若モシは大の字をくはへず、日本ともかけり。州シマの名を大日
本豊秋津といふ。懿徳イトク・孝霊・孝元等の御諡オンオクリナみな大日本の字あり。垂仁天皇の御
女オンムスメ大日本ヤマト姫といふ。これみな大の字あり。天神アマツカミ饒ニギの速日ハヤヒの尊、天アマ
の磐船イハフネにのり大虚オホゾラをかけりて「虚空見ソラミツ日本ヤマトの国」との給タマフ。神武の御
名神日本カミヤマト磐余彦イワレビコと号したてまつる。孝安を日本足ヤマトタラシ、開化を稚日本
ワカヤマトとも号、景行天皇の御子小碓ヲウスの皇子ミコを日本武ヤマトタケノ尊となづけ奉る。是は大
を加クハヘざるなり。彼此同くやまととよませたれど大日靈の義をとらば、おほやまとと読
てもかなふべきか。
 
 其後漢土カンドより字書を伝ける時、倭と書て此国の名に用たるを、即スナハチ領納リャウナフし
て、又此字を耶麻土と訓じて、日本の如に大を加へても又のぞきても同オナジ訓に通用し
けり。
 漢土より倭ワと名づけける事は、昔此国の人はじめて彼土カノドにいたれりしに、「汝が
国の名をばいかゞいふ。」と問けるを、「吾国ワガクニは」といふをきゝて、即倭ワと名づ
けたりと見ゆ。
 
 漢書カンジョに、「楽浪ラクラウの(彼土の東北に楽浪郡あり)海中に倭人ワジンあり。百余国
をわかてり。」といふ。もし前漢ゼンカンの時すでに通ツウジけるか(一書イッショには、秦シンの
代よりすでに通ツウズともみゆ。いたにしるせり)。後漢書ゴカンジョに、「大倭王ダイワワウは
耶麻堆ヤマタイに居キョす。」と見えたり(耶麻堆は山となり)。これは若モシすでに此国の使
人シジン本国の例により大倭と称するによりてかくしるせるか(神功皇后の新羅シラギ・百済
クダラ・高麗コウライをしたがへ給しは後漢の末ざまにあたれり。すなはち漢地にも通ぜられた
りと見ミエたれば、文字も定てつたはれるか。一説には秦の時より書籍ショジャクを伝ツタフとも
いふ)。大倭といふことは異朝にも領納して書伝ショデンにのせたれば此国にのみほめて称
するにあらず(異朝に大漢ダイカン・大唐ダイタウなどいふは大オホキなりと称する心なり)。唐
書タウジョニ「高宗カウソウ咸亨カンカウ年中に倭国の使ツカヒ始てあらためて日本ニホンと号す。其国東
にあり。日の出所イヅルトコロに近チカキをいふ。」と載ノセたり。此事我国の古記にはたしかな
らず。推古天皇の御時、もろこしの随朝ズイテウより使ありて書ををくれりしに、倭皇ワクワウ
とかく。聖徳太子みづから筆を取て、返牒ヘンデフを書カキ給しには、「東ヒガシノ天皇敬ツツシミテ
西皇帝ニシノクワウテイに白マヲす。」とありき。彼国よりは倭と書たれど、返牒には日本とも倭
とものせられず。是より上代カミツヨには牒ありともみえざるなり。唐の咸亨の比コロは天智
の御代にあたりたれば、実マコトには件クダリの比より日本と書てをくられけるにや。
 
 又此国をば秋津洲アキヅシマといふ。神武天皇国のかたちをめぐらしのぞみ給て、「蜻蛉
アキヅの臀舌(口偏+舌)トナメの如くあるかな。」とのたまひしより、此名ありきとぞ。し
かれど、神代に豊秋津根トヨアキヅネといふ名あれば、神武にはじめざるにや。此外コノホカもあ
また名あり。細戈クハシホコの千足チタルノ国とも、磯輪上シワカミの秀真ホツマの国とも、玉垣タマカキの
内国ウチツクニともいへり。又扶桑フサウノ国と云名もあるか。「東海の中に扶桑の木あり。日の
出所イヅルトコロなり。」と見えたり。東にあれば、よそへていへるか。此国に彼カノ木ありと
いふ事聞えねば、たしかなる名にはあらざるべし。
 
 凡オヨソ内典ナイテンの説に須弥シュミといふ山あり。此山をめぐりて七ナナツの金山コンセンあり。其
中間は皆香水海カウスイカイなり。金山の外に四大海シダイカイあり。此海中に四大洲あり。州ご
とに又二フタツの中州チュウシウあり。南州をば贍部センブと云(又閻浮提エンブダイト云。同ことば
の転也)。是は樹ウエキの名なり。南州の中心に阿耨達アノクタツといふ山あり。山頂に池有アリ
(阿耨達こゝには無熱ムネツといふ。外書ゲショに崑(山偏の崑)崘コンロンといへるは即この山
なり)。池の傍カタハラに此樹あり。めぐり七由旬ユジュン高タカサ百由旬なり(一由旬とは四十
里なり。六尺を一歩イチブとす。三百六十歩を一里とす。この里をもちて由旬をはかるべ
し)。此樹、州の中心にありて最も高し。よりて州の名とす。阿耨達山の南は大雪山
ダイセツセン、北はソウ嶺ソウレイなり。ソウ嶺の北は胡国ココク、雪山の南は五天竺ゴテンヂク、東北
によりては震旦シンタン国、西北にあたりては波斯ハシ国なり。この贍部州は縦横七千由旬、
里をもちてかぞふれば二十八万里。東海より西海にいたるまで九万里。南海より北海に
いたるまで又九万里。天竺(印度の古称)は正中タダナカによれり。よって贍部の中国チュウコ
゙クとすなり。地のめぐり又九万里。震旦(支那の異称)ひろしといへども五天にならぶ
れば一辺の小国なり。
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